ためらい

 ここのところ体調不良でした。まだ不調ですが,今朝,「ドアにベビーカー挟みメトロ発車、車掌対応せず」という新聞記事が目に付いたので,リハビリ記事を書いてみました。

YOMIURI ONLINE
・・・車掌は単独乗務が19日目で、「隣の神保町駅で対応しようと思った」などと話したという。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160404-OYT1T50115.html?from=tw

NHK NEWS WEB
・・・車掌は最初に押された車内の非常ボタンの対応に追われ、「気が動転して緊急停止をためらってしまった」と話しているということです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160405/k10010467681000.html

 読売の記事の車掌さんは随分のんびりしていますね。ベビーカーがドアに挟まって電車が動き出したのに,隣の駅で対応しようと思ったそうですから。あまりの悠長さに,この記事は疑わしいと大抵の人は感じるのではないでしょうか。一方のNHK NEWSの記事は,まあ普通です。

 しかし,読売記事も間違いだとは限りません。車掌さんの気の動転は,取材時も続いていて,「隣の神保町駅で対応しようと思った」とも言ってしまったのかもしれません。記者がそれをそのまま記事にしてしまうとこんな記事になってしまいます。NHK NEWSよりも,異常な印象で記者が飛びついたということも考えられます。いずれにせよ,「隣の神保町駅で対応しようと思った」というのが事実である可能性は少なそうです。

 ただ,「隣の神保町駅で対応しようと思った」が,全くあり得ないとも言えません。報道の教訓ではなく,危機管理の教訓としてはそちらの方が興味深いものがあります。私はしばしば痛感しますが,行動パターンを変えて緊急事態に対応するというのはなかなか難しいのです。緊急事態にも係わらず,緊急行動を採るのが面倒臭くて,通常の行動パターンを継続してしまいます。いわゆる「正常性バイアス」です。

 私の経験で比較的多いのが,通勤途上で靴紐が解ける緊急事態です。気づいた時に結び直せば良いのですが,歩みを止めてしゃがみ込み,カバンを地面に置いて,靴紐を結ぶというのが面倒臭くなります。カバンも汚れるし,若い人には実感できないかも知れませんが,老人がしゃがむのは結構な重労働です。職場あるいは自宅に着いてから対応しようと思っちゃうんですね。そんなくだらない話と重大さが桁違いの電車の緊急停止を同列に論じるなと,怒られそうですが,靴紐も重大事態になる可能性をはらんでいるんです。自分の靴紐を踏んで転びそうになったこともありますし,運が悪ければ,エスカレーターに靴紐が挟まり,重傷を負うかもしれません。

 よく話題になるのが,人が倒れているのに,誰もが無視して通り過ぎていくという都会の無関心事件です。ただし,無関心なのではなく正常性バイアスなのだと思います。倒れている人を無視するの非情な私ですら憤りを感じますが,具合が悪そうにしゃがみ込んでいる人程度なら,声を掛けるのを躊躇します。まあ,私が声を掛けなくても,次の人が対応してくれるでしょう。ただ,次の人が救急車を呼んでくれて病院に搬送したけど,残念ながら手遅れでお亡くなりになるということも想像できます。しかも,数分早かったら助かったかもしれず,数分前には私が通りかかっていたとしたら,寝覚めが悪いですね。

 とはいえ,数分差で手遅れとか,靴紐がエスカレータに挟まり大けがという事態は稀で,瞬間的に想像できませんので,あとで反省はしても対応しないことが多いのです。ベビーカーがドアに挟まった電車が引き起こす事態とは大いに違います。違いますが,程度問題ともいえるわけで,電車も靴紐も地続きの問題です。

 緊急時の対応が難しいことに関して,良く言われるのが「急ブレーキ」です。多くのドライバーが咄嗟の急ブレーキが踏めなくて,衝突してしまうそうです。容易に結果が想像できる場合でも,ためらいが生じるのです。