修飾の語順

「、」の打ち方ご存知ですか? だれも教えてくれない作文の技術
http://koizumihikaru1234.hatenablog.com/entry/2015/12/05/184510

1. かかる言葉と受ける言葉は直接つなぐ
2.  かかる言葉は長い順にまとめる
3. 「、」テンの打ち方

 「日本語の作文技術」は読んでいないのですが,本多勝一氏が,一般向けに作文技術を広めたらしいです。確かに,金田一春彦の「日本語(下)」にも書いてあります。

一つの動詞に対して、長短さまざまの連用語がかかっていく時、本多勝一は長いのを前に置いた方が文脈がわかりやすいと言った。

 「日本語の作文技術」が実用的なノウハウ集だとすれば、一般向け図書ながら,もう少し体系的,精緻に述べてあるのが小池清治氏の「日本語はどんな言語か」です。日本語の「連用修飾成分」には基本的配列があって、つぎのような順序になるそうです。同様に「連体修飾成分素」にも基本配列があります。連体の方は「素」が付いていますが,理由は小池本を読んでください。

「節」は当然ながら長くなりますので、本多勝一氏の「2.かかる言葉は長い順にまとめる」と概ね合致します。また、「3.「、」テンの打ち方」についても,補足的に次の様に述べてあります。

これらの語順から外れた場合、意味が変化したり、誤解を生じやすい表現となる。これを避けるためには、読点を打つなどの配慮が必要となる。

 ただ,本多本の「1.かかる言葉と受ける言葉は直接つなぐ」に相当する記述はありません。一つの言葉にかかる修飾成分が複数あれば,直接つなげないものが出てきますからそもそも無理です。その場合いどれを近づけて配置するかが上記の配列順序といえます。

 しかし,修飾成分の中にさらに修飾と被修飾の関係が入れ子になると微妙になって来ます。最近見かけたtogetterから例を示します。

アメリカで幽霊の出る部屋に暮らしている留学生の嘆きがなんかズレてる「気にするとこそこじゃない」http://togetter.com/li/908336
 
 私の霊感ある友人が米国に留学してて、・・・・

 「私の霊感ある友人が・・・」に私は違和感を感じます。「霊感ある私の友人が・・・」の方がすんなり読めます。ところが、後者の表現では、霊感があるのが私、と誤解される恐れもあります。つまり,「霊感ある」が「私」にかかって「霊感ある私の」という句を形成し,それが「友人」にかかるという解釈です。

 (霊感ある私)の友人 

それに対して,「私の」が「友人」にかかって「私の友人」という句を形成し,それに「霊感ある」がかかっているという解釈も可能です。

 霊感ある(私の友人)

 どちらが自然なのかは,「霊感(が)ある」という節と「私の」という句の直後の言葉との結びつきの強さによります。その答えも上述の配列順序にあるように思えます。節よりも「・・・の」という句の方が直後の言葉と強く結び付いているのではないでしょうか。そのため,「霊感ある(私の友人)」が自然に感じるような気がします。「霊感ある」という節は(私の友人)を引き裂いて「私」に結び付く程の接着力はないのです。

 同じ理由で,「私の霊感ある友人」と言う表現は「(私の霊感)がある友人」となってしまい,違和感を感じたのではないかと思います。

 というようなことを感じたのですが,実は前置きです。私は所詮,言語学の素人ですから,上に述べた「結びつきの強さ」などはとんだ勘違いかもしれません。違和感云々も私だけの感覚かもしれません。それでも,言語学は多くの人に共通した言語感覚が出発点の筈です。自然言語は意思疎通の為に自然に発生したものですから,一部の言語学者が文法的にかくあるべしといったところで,多数の人の感覚と違えば用をなしません。

 多くの人に言語感覚が共有されるのは,考えて見れば不思議です。裏に隠された文法は全く意識しないのに,そのルールに従って意思疎通が出来るのですから。自然言語の文法は意識的につくられた法律や学問体系と違って,ほとんど無意識につくられたものです。相当,人間の本能に近いところから生まれたもので,「生成文法」とはそう言ったものなのかなと思ったりしますが,あいにくその知識は全くありません。

 言語学は人文科学に分類されていますが,心理学などと同様に自然科学に近い印象を受けます。