前記事からの続き
「情報量がない概念」については、ファインマンがかつて批判しました。「車はなぜ動く?」「エネルギーが動かすのさ」「なぜ植物は育つ?」「エネルギーが育てる」みたいな米国の教科書を、「エネルギーがどのように変換されるか書かないと意味がない」と批判。「サムシング・グレート」も同様。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2015, 9月 8
ファインマンがそんなことを言っていたとは知りませんでしたし、「サムシング・グレート」も何のことかよくわかりません。しかし前の記事で私が書いた「偉大な何ものか」は確かに情報量のない概念です。
「このように複雑で精緻な精密機械をどのようにして造ったのだろう」という疑問に「そのような精密機械を造ることができる人が造った」といっても答えになっていません。誰が造ったかではなくて,どのようにして造ったかが疑問だからです。しかも,「造った人は隣の山田さんだ」という情報すら与えてくれていません。「造ったのは造った人だ」という同義反復に過ぎず、情報量皆無ですね。
また、 犯罪捜査では,様々な情報から犯人を絞り込みますが、「警察より頭が良く,何の手がかりもなく逮捕不可能な犯人」と警察が言えば、犯人情報が皆無で警察は無能と告白していることになります。謙虚でよいのかもしれませんが。
人知が及ばないことはいくらでもあって、そこは謙虚でなければいけません。ただ、警察が誤認逮捕をしたり、迷宮入り事件があるからといって、真犯人は「偉大な何ものか」というのは謙虚というより、職務怠慢ですね。