どこまでわかっているのだろう?

 ある本に次のようなエピソードが載っていました。

「数学は難しくてわからないと人は言うが、それは君の説明の仕方による。飲んだくれを前にして、2/3と3/5のどっちが大きいか尋ねれば、わからないという答えが返ってくるだろう。しかし、それをこう言い換えてみてみたまえ。二本のウォッカを三人で飲むのと、三本のウォッカを五人で飲むのとではどっちがいいか、とね。飲んだくれはすぐに、二本を三人で飲む方がいいに決まっていると答えるだろう」

 私がこの本を読んでいた時は飲んだくれていませんでしたが、すぐにはわかりませんでした。通分すればわかりますが、飲んだくれだって通分できればわかるでしょう。だから飲んだくれでもできる通分せずにわかる方法があるはずです。それがすぐには分かりませんでした。

 時間を掛ければ、次のように考えることもできます。

 三本のウォッカを五人で飲むのは、二本を三人で飲むのと、一本を二人で飲むのに分けられる。後者は二本を四人で飲むのと同じで、二本を三人で飲むより損。つまり、三本のウォッカを五人で飲むのは、二本を三人で飲むことと、それより損な飲み方に分けられ、二本を三人で飲むほうがいい。

 しかし、「すぐに」答えることはできません。飲んだくれはどのように考えたのでしょうか?多分、考えていないのかもしれません。飲んだくれですから、ウォッカを飲む経験は数多くあると考えられます。それほどの経験があれば、直感的にどっちがよいか分かるのかもしれません。それも、「当ったり前じゃないの」という確信をもってです。

 私が大抵の事柄で「分かった」と感じているのも、この飲んだくれと同じではないかという気がします。直感的に「当ったり前じゃないの」と思えれば「分かった」と感じているだけで、その直感を論理的に説明できているわけではないのです。三本のウォッカを五人で飲むのを、二本を三人で飲むのと、一本を二人で飲むのに分けて考えるようなことをしないでも「当ったり前じゃないの」と思っているだけで。