一体誰が競技場を作りたがっているのか

新国立競技場 為末大

スポーツの現場から見ても不思議なのは、一体誰が競技場を作りたがっているのかがよくわからない点です。
http://tamesue.jp/20150710/

 為末大氏のこの疑問に対して、はてブコメントで、「ゼネコン」という反応がいくつかあった。確かにゼネコンは競技場を作りたがっている。ただし、今の計画でやりたいわけではないだろう。むしろもっと穏当な計画のほうが嬉しいのじゃないだろうか。大きな受注額を望んでいるのは当然としても、確実な利益が見込めるという条件が前提である。

 ゼネコンも慈善事業をやっているのではないから、赤字工事はしたくない。民間需要が大きい好景気時には官公庁工事は入札不調が多い。官公庁工事は物価変動の予算への反映が遅れるので、誰もやりたがらないのである。それでも、体力のある大手は不況時の受注という後のことを考えて、あえて赤字受注をするかもしれない。貸しを作るというわけである。公共工事において、貸し借りなどということは許されないが、ありえない話ではない。しかし、貸しというのは、後でもっと大きな見返りを期待しているのであって新国立競技場より大きな見返りは想像しにくい。貸し倒れの危険があるのであり、しっかり黒字にしておく必要があるだろう。

 問題のキールアーチを含む上部構造を受注予定の竹中工務店は、かつて国際的イベントの施設で大事故を起こし工期に間に合わなくなりそうな危機に陥ったことがある。その危機は無事乗り切ったが、本邦初というような工事ではそのような危険は少なからず潜んでいる。その工事単独の収支の問題ではなく、日本の国際的信用にかかわることであり、会社の存続の問題になる出来事だったのである。新国立競技場も同様にハイリスクハイリターンなのであり、自ら画策、主導して行いたい工事とは決めつけられない。

 では、自ら主導して行いたいのは誰かである。文科省とか政治家だろうと考える人が多いかもしれないが、それはあくまで裏事情の憶測である。憶測ではなく、表面上というか建前を言えば、やりたがっているのは建築家である。工事担当のゼネコンではなくて、設計担当の建築家なのである。いうまでもなく、ザハ・ハディドはやりたがっているし、その案を最終的に選んだコンペの安藤委員長もやりたがっていた。今現在はどう思っているかはわからないが、何も発言がない以上、選定時と考えは変わっていないと言わざるを得ない。

 ところが、ザハ・ハディドはコンペの当選者であるが、監修者という立場の契約関係にある。コストの問題はコンペ時点で分かっており、ザハ・ハディドにはコストコトロールの能力がないということは前科から分かっていた。そこで、別に日本チームがコストの検討を行うことになったらしい。この日本チームには設計事務所の他にゼネコンも加わっている。工事費に一番詳しいのは施工するゼネコンであり、設計事務所ではないからだ。外から見ている限りでは、ゼネコンは後から巻き込まれただけで、発端は建築家である。

 そして、このような契約関係からすると、コストの責任は日本チームにあることになりそうだ。その中でも中心となるゼネコンは、自ら施工することになるのであり、安全を考慮した工事費を出すのは当然である。ゼネコンとしては、ザハ・ハディド案に拘りなどなく、もっと穏当な計画に変更して、確実に利益が見込める方が嬉しいのではないだろうか。

 それに対して、(一部の)建築家の考えは違う。穏当な計画とは凡庸な計画であり、巨大なゴミは作るべきではないという。ザハ・ハディドのオリジナルを尊重すべきで、それができないなら建設自体をやめるべきだという。こういうことを言われても事業者は困るのであるが、建築家はそういうことを言う傾向がある。芸術家という自負のせいなのか知らないが、日本は、文化にお金を使わなさすぎるという不満が大きいのである。挑戦的な試みが大事だという。

 文化は確かに重要であるが、それを強調する建築家は新国立競技場のお金の責任を負うべき立場にない。張本人のザハ・ハディドですら監修者でしかない。お金の責任は、文科省、JSC,ゼネコンを含む日本の関係者チームにあるが、彼らは別に、ザハ・ハディドの計画に拘りがあるようには見えない。計画変更すれば間に合わなくなる心配をしているだけのようだ。

 ゼネコンは悪役にしやすいが、そんな単純な話ではなさそうだ。一番作りたがっている人は、責任のない蚊帳の外に追いやられてしまっているのに、その呪縛から逃れられないという奇妙な状態に見える。