ソーカル事件が提起したものー訳が分かっていないのは誰か?

訳が分かっていないのに、「ポモはダメ!」と言いたがる残念な人達
http://meigetu.net/?p=2781

 仲正昌樹氏の主張は次の様なものだと思います。

 「ソーカル事件ポストモダン思想が自然科学の無意味な比喩を使っていることを示しただけで,内容に価値がないことを示したわけでは無い。」

 しかし,ソーカル事件が提示したのは,そんな表面的なものではないと私は考えます。ソーカル事件とは,ジャーゴンだけで,内容の無い偽論文を投稿したら,採用されたというものです。これが意味するところは,内容が審査されていなかったという,審査体制の問題です。内容があればこけ威しのジャーゴンは余計な修飾として無視すれば済みます。ところが,内容が無くても評価されたという大問題なのです。裸の王様がファッショナブルと評価されたのです。ここから示唆されるのは,他のポストモダン思想も内容の無い裸の王様ではないかとう疑いです。

 その疑いを晴らすにはどうしたらよいかといえば,きちんと内容を評価して示せば良いわけです。ところが,それが出来ないのです。なぜなら自然科学のような評価基準が無いからです。デリダとかドゥルーズという個別の思想の問題ではなく,評価基準がないというポストモダン思想界を根こそぎ揺るがす問題です。従って,他のポストモダン思想も内容が無いのではないかとう疑いは晴らされないままです。

 実は,そのことは仲正昌樹氏も理解していて,記事の初っぱなに書いています。

自然科学における論争と違って、人文系の学問の論争は、クリアに決着が付かないことが多い。簡単に言うと、自然科学系の多くの問題は、実験とか計算、事実の観察によって、決着をつけることができるが、人文系では、それに相当するものがない。

 評価を決着させる基準がないので,何でも有り状態になっているということです。ひょっとしたら,内容のある素晴らしい論があるのかも知れませんが,それは客観的に誰にも分からないのです。別に,自然科学のような評価基準である必要はありません。面白いと思う人が多いと言う人気投票だってよいのです。文学の評価はそれに近いと思います。でも,それすらないのがポストモダン思想界だということではないでしょうか。そして,それが重要な問題だと認識もされていないということだと思います。

 統一基準は難しいかもしれませんが,それぞれの思想家はどういう基準で自分の思想を作り上げたかは示すことはできると思います。人を煙に巻くペダンチックを狙ったというのなら,それを明示する誠実さがないと,有害です。