言論の抑圧

 「言論・表現の自由の侵害である。」

 問題発言や表現への謝罪や撤回要求を行なうと、よく返ってくる反論です。百田尚樹氏発言でも、美味しんぼ鼻血騒動でもそうでした。だからと言って、裁判になることはほとんどありません。実際に強制的に謝罪・撤回させれば裁判になるかもしれませんが、実際に強制するのはほとんど不可能です。所詮、言い争いのなかで、インパクトのある言葉として利用しているだけかと思います。

 言論の抑圧というと、チョムスキーのPLAY BOY日本版の2002年6月号のインタビュー記事を思い出します。インタビューアーの辺見庸チョムスキーに米国政府から圧力を受けていないかと尋ねたのに対して、次のように答えています。

 いいえ、ちょうどその反対なのです。この国はおそらく、世界一自由な国です。言論への統制などいかなる意味でもない。政府はできるものなら言論を統制したいと願っているけれども、その力はありません。・・・・

 また、カリフォルニアのバーバラ・リー(下院議員)や作家のスーザン・ソンタグがある種の脅しに晒されていると聞くが、意見を求めると、

 そんなことはありません。彼女たちは当局からはいかなる脅しも受けてはいないのです。批判的な立場をとると、脅迫の手紙を受け取ったり、人から嫌われたり、新聞に悪く書かれたりはする。そういうことが起こりうる、という現実に不慣れな人々は驚きはするでしょう。しかし、ここで起こっていることなど、どうということはないのですよ。それを取り立てていうこと自体、「不面目」なことです。

 と、答えています。いや、脅迫の手紙は脅しじゃないかと思いますが、どうということはないと言ってのけています。それに続けて、トルコではチョムスキーの著書を出版した出版人が裁判にかけられていて、その裁判のため先日までトルコに行っていたと話します。「どうということはない」のは、それに比べたらという相対的な意味なのです。

 それに、トルコの刑務所というところはハンパではない。彼らが立ち向かわなければならないものに比べたら、この国の人間が抑圧などということ自体、恥ずかしいんです。この国では、抑圧といっても誰かから中傷される程度でしょう。そんなこと、誰が気にしますか?ちっとも大したことではない。

 また、「意見の封殺」についても、厳しいことを言っています。

 マスコミは、いろんな意見を封殺することができます。いまはAOLタイム・ワーナーになっている企業が、私の本を世間に出回らせないようにするためだけに出版部門をつぶし、保有していた書籍をことごとく抹殺したことがあります。そういうことは現実に起こるんです。しかし、それは抑圧とはいえない。出したければ別の出版社から本を出すことだってできるんですから。そういうことをことさらにいい立てるのは馬鹿げています。

 辺見庸が、言論統制がないというのは他国との比較であって、締め付けがないわけではない、というと次のように、反論しようがないことを話します。

 言論の自由アメリカで、市民の運動のなかで獲得されてきたものです。第一次世界大戦当時、バートランド・ラッセルはどこにいたか。刑務所です。アメリカの労働運動指導者、ユージン・デブスはどこにいたか。刑務所です。彼らがいったい何をしたというのか?何もしていません。”戦争の大義”に疑義を呈しただけです。言論の自由とはそういうことです。いまは違いますよ。市民運動言論の自由の範囲を広げたのです。現在まで自由は保障されています。だが、このまま保障されつづけるわけではない。こういう権利は勝ち取られたものです。闘わなければ勝ち取ることはできない。闘うのを忘れてしまえば、権利は失われていくのです。天与の贈り物のように、降ってくるのではないのです。

 これを読むと、チョムスキーは、言論の自由とは当局の抑圧からの自由であって、議論相手の批難や中傷や要求や脅迫や妨害を受けないことではと考えているようです。そういうことは起こりうることであって、大したことではないというわけです。そんなことで、「言論の自由が・・」などというのは恥ずかしいことだと。当局とは言論の自由のため闘い続けなければならないし、当局以外とも競争を闘い続けなければならない、というわけで大変です。まあ、誰もが闘う必要はないにしても、闘わなければならない「知識人」が当局とは闘わないと皮肉っぽく言っています。

 それにしても、出版部門をつぶされても抑圧とはいえないには驚きましたが、考えてみれば、私企業の経営判断といえばそれだけのことです。つぶされないためには競争を戦わなければならないのですが、それは当たり前といえば当たり前です。

 言論・表現の自由憲法に定められていることで、国家が国民の自由を制限しないといっているだけなのですね。一方で、国民同士ではその自由を制限しようとして、ドロドロの争いを繰り広げています。それらの行為のなかには憲法違反かどうかは別にして、個別法違反もあり、裁判闘争も行われています。

 しかし、国家と国民の境界もはっきりしたものではなく、連続的につながっています。国民の一部が政治活動を行い、政権をとれば国家の権力を使用できます。従って、いろいろと微妙な事柄も出てきます。とはいえ、微妙ではない基本的なこともあるわけで、そのあたりを詭弁でかき回す人々もいるんですね。