娯楽としての差別

旦那が在日在日うるさい
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20150603182105

テレビで事件の容疑者が映ると
「これ、在日だよ。苗字みればわかる」
「大阪だったら在日でしょ?」
「在日だからしょーがない」
マジでうるさい。

 子どもの頃,「知っとうね。あん人,朝鮮人よ」といううわさ話は良く聞いた覚えが有ります。「金」や「張」という文字が名字に入っているとそういう風に言われたものでした。九州という大陸に近い土地柄,実際に大陸人は周囲に大勢いたように思います。私の親も大陸人を見下しているような所がありました。それと同時に,商売や生活上付き合いも多く,普通に接してもいました。見下していると感じたのは,本人がいないところで「あれは朝鮮人やけん・・・」というようなことを言っていたからです。

 冒頭の「知っとうね。あん人,朝鮮人よ」のようなチクリは子どもの世界で耳にしたものです。私の様に親の差別的言動を見て,「金田というのは,朝鮮名を日本風にしたものだ」という知識を吹聴したくなったのだと思います。子どもは耳学問を得意げに吹聴したいものです。いや一般化してはいけませんが,私はそうでした。

 私の親の世代と私の世代では差別でも体験に基づくものと耳学問という違いがあったように思います。私の父は戦争で南方戦線に向かう途中で中国に滞在していましたし,母親は大連からの引き揚げ者です。朝鮮人や中国人と日常的にお付き合いが有ったのです。身近に接すれば,良いところも悪いところも目につきます。ただ,当時の政治的状況から対等な付き合いとは言えなかったはずです。悪く言えば見下している,よく言えばパターナリスティックに指導してやっているという気分があったのではないだろうか,というような印象を親を見ていてなんとなく感じました。

 対等ではないとはいえ,大陸に暮らす以上,彼らがいなくては生活も出来ないわけで,付き合わざるを得ません。差別心は厳然とあるのですが,そこには歯止めがあるという感じです。歯止めを外せば,自分自身も生活出来なくなるので,外せないのです。家畜のように扱っていても,殺さないように扱わなければなりませんし,愛情を抱くことだって珍しく有りません。

 一方,子どもの頃の私の世代の差別はほとんど空想です。身近に朝鮮人もいたのですが,日本人と区別出来ません。朝鮮人特有の言動が気に入らないのではなく,朝鮮人ということで気に入らなくなるのです。朝鮮人であることは人に教えてもらわなければ自分では判別出来ません。そこで,「知っとうね。あん人,朝鮮人よ」というチクリ情報が価値を持つわけです。

 子どもということもあり,親友にでもなっていなければ,付き合わなくても生活に支障は有りません。そのため,差別に歯止めが有りません。歯止めが無いといっても,過激な行動をしたわけではありません。汚いものには触れないように,遠巻きに眺めて近寄らないようにするだけです。付き合いがなくなることで,差別の空想はさらにふくらみます。現実離れした朝鮮人像が形作られていきました。いや,それほどの明瞭な像ではなく,なんとなく朝鮮漬臭いなというイメージ程度ですけど。

 このイメージは二十歳前後まで私の頭の中に残滓がこびり付いていて,現実の朝鮮人との付き合いにちょっとした戸惑いをもたらしていました。当然差別はいけないという知識はあるのですが,かすかな戸惑いが有ると言えばあるというような微妙なものです。で,実際,お付き合いすると,なんら日本人と区別できず,それにまた戸惑うという始末でした。私が接した人は日本語も流ちょうにしゃべるし,日本に長いこと住んでいるのですから区別出来ないのは当然です。大陸に住む人の場合もまた違った印象があるかも知れませんが,それは経験がないので分かりません。

 実際に接したからといって差別が無くなるというわけではありませんが,付き合いが無いと空想は膨らむ一方です。付き合う必要も無ければ,排斥運動のような過激な方向に行くかもしれません。それほどの行動力の無い場合は,生活に影響しない娯楽になるのかもしれません。TVを見ながら「これ、在日だよ。苗字みればわかる」とか言って。