永遠に生きる

■意識は超難問なのだけど

コンピューターに意識をアップロードして永遠に生きることは可能か?
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/05/31/114303 

 SFで良く見られる設定ですが,この問いかけは,永遠の意識を望む人がいるという前提があるように思います。ただ,果たして望むようなことであるかどうかは,少し考えただけで疑問が出てきます。そもそも永遠の意識とはどんな「感じ」がするのかも良く分からないのです。分からない状態を望むかどうかと問われても答えられません。どんな「感じ」とはクオリアに係わりますが,それは哲学や脳科学の未解決の難問ですから,私に分かろう筈もありません。とはいえ,永遠の意識とは今私が感じている意識とはまるで違った「感じ」であろうとは想像がつきます。それについて説明をしてみます。

■肉体と意識の分離(留保)

 さて,瞬間的に頭に浮かぶのは,肉体と意識を分離出来るかということです。SFホラーで脳だけ取り出して培養するという設定が有りますが,体が無くなった時点で最早,元の人間とは別物になってしまうような気がします。これはこれで難しい問題だと言えますが,取りあえず,過去の記憶が残っていて記憶の連続性が保たれていれば体がコンピューターになっても以前と同じ自分であるという前提で以下進めます。

■コピーによる記憶の自己同一性機能の混乱

 もし,記憶のコピーを複数作れば,それぞれが過去の記憶を共有することになり,それぞれが過去から連続した自分であると主張することになります。一方で,コピー以後の経験はそれぞれ別物ですから,コピーは全部別人です。このことは厄介な問題を引き起こします。記憶の連続性は何故有るのかということと係わるからです。

 記憶の機能を考えると,過去の記憶は自分だけのものというのが重要で,そのことで時間を超えた自己の同一性を保っています。つまり他者と自己の区別が意識の機能なのですが,記憶が他の個体と共有されてしまえば,この機能が果たされません。こういう状況では意識は混乱必至でしょう。

■混乱の回避 事実のあるがままの認識

 ただ,混乱は最初だけで暫くするとコンピュータの意識は次の様に考えるでしょう。アップロード以前の記憶は単に移植されただけで,アップロードで自分は誕生したと,まさに事実通りの事を。さもなければ,現実と整合しませんので混乱したままです。私自身,子どもの頃の記憶で現実のものと空想や夢なのか実感としては区別のつかないものがありますが,理屈で考えて,あれは夢でしかありえないと解釈しています。リンク先ブログの思考実験で,元の自分と記憶をコピーしたコンピューターが併存するという状況は同じことを物語っています。混乱を脱したコンピューターは当面は元の自己と記憶を共有していますが(永遠に保持出来ない可能性は後述する),オリジナルの意識とは相当変質してしまっています。

■複製が無くても意識は変質する

 しかし,この問題はコピーを一つしか作らず,オリジナルは則抹殺という制限を加えることで一応解決出来ます。解決出来ますが,問題はそれだけではありません。意識が死なないと,新たな意識が誕生すると,どんどん増えてしまい収拾がつかなくなります。それを防止するために,新たな意識の誕生にも制限を設け,一定数を保つような対策が必要になるかも知れません。

 このような事は意識の永続性が実現された後の外部技術的問題であって,意識の永続性という内的問題とは本質的には係わらないように一見思えます。しかし,内的と外的は単純に分離出来ません。意識が際限なく増えて行く世界,或いは新たな意識の誕生が希で,あまり代わり映えしない世界,そのような世界の意識とは今,私が感じている意識とは随分違うはずです。

■永遠の意識は変化し続ける

 ところが,永遠に生きて欲しいと考える意識とは,そんなわけの分からない意識ではなくて,今私が感じている意識なのです。ですが,現状の意識とは,寿命に制限があることと密接に関わっているので,永遠の寿命を与えられると変質してしまうということです。変質しても永遠と言えるかは微妙です。このことは,最初に述べた,肉体と分離された意識は元の意識と同じかという問題に似ている所があります。

 結局,永遠に生きることは可能ともいえるし,不可能とも言えると思います。どちらになるかは,どのような意識を考えるか次第ですが,現状の意識を変質させずに永遠に残すのは不可能でしょう。実は昨日の意識と今日の意識も変質しています。記憶によって同じ意識であると認識していますが,非常に大きな出来事や環境の変化によって,昨日までの自分とは変わってしまったと感じる事はコンピューターならぬ生身の脳でも起こりえます。コンピューターにアップロードされ永遠に生きられるという状況は想像を絶する環境の変化といえますから,どんな変質になるかも想像を絶するはずです。

■永遠の肉体も意識の変質をもたらす

 たまたま最近読んだ「夢幻諸島から」にも不死人の話が出てきます。ただし,記憶は失われ肉体だけの不老不死という設定になっています。意識の不老不死と真反対ですが,この場合でも様々な支障が生じてしまいます。永遠の命は可能だとしても,可能になった時点で最早もとの命とは違うものになってしまい,それは望んでいたものと違うことが示唆されています。

 強引に一般化すると,個体と環境,自分と社会は相互関係があり,個体や自分の一部を保存して、別の一部だけ変えようとしても,変えた部分が環境や社会に作用し,それが個体や自分にはね返ってきます。その結果保存しようとした部分も変化してしまうのではないでしょうか。都合良く一部だけ保存することは原理的に不可能であるような気がします。

 実は,意識以外のものについてはありふれた教訓話があります。貧しい主人公が金持ちに憧れ,努力の末に大富豪になったのだけれども,なぜか満足を得られないという話です。金持ちになることで自分自身が変わってしまったからです。
   

■意識だけ永遠に生きる意味

 あくまで比喩的な言い方ですが,進化論的には,意識は遺伝子の繁栄のための手段であって,主体的なものでは有りません。個体の寿命期間だけ機能してくれれば十分です。意識は肉体や遺伝子を保持するためにある二次的なものであることは,意識を持たない生物も存在することから想像がつきます。意識が肉体の寿命を超えて存続するメリットは遺伝子にとって何も無く,そのような進化は起こらないでしょう。

 ただ,意識は自分が主体だと思っていて,死を恐れます。これは意識にとっては脅威であって,永遠の意識を望んだりします。その結果,意識が遺伝子に謀反を起こして,永続性を獲得する技術を開発しないとも言い切れません。そうなれば,これまで述べたような問題が生じます。それ以外に,記憶容量がすぐに不足してしまうという問題も考えられます。無限の記憶を貯蔵することは出来ません。おそらく,古いものから忘却していき,最近の数十年の記憶だけが残っているという状態です。そうなると,子ども時代の記憶や教育を受けた記憶はなくなり,成人の記憶だけという奇妙な状態になります。その成人の記憶がどのように形成されたかという記憶はないのです。このような意識が正気を失わずに存続しうるかも不明です。

 技術的に意識をコンピューターにアップロード出来る可能性は否定出来ません。しかし,アップロードした後の意識の変化はどうなるのか予測不能です。せっかくアップロードした意識は,記憶容量制限で間もなく消去されてしまうわけです。これを以て永遠の意識と言えるかどうかよく分からなくなります。永遠の意識が可能だとしても,それは素朴に考えている現状の意識とはかけ離れているのは確かでしょう。一つ言えることは,この様な意識には寿命が尽きる恐怖は無いことだけです。しかし,オリジナルの意識の死の恐怖が無くなるのかどうかは分かりません。もし無くなるとしたら,子孫の存在でも無くなるのではないでしょうか。もちろん自分の意識と子孫の意識は別物ですが,その違いとは比較にならないほどの違いが永遠の意識にはあるのではないでしょうか。となると,永遠の意識を作る意味は・・・