シャーロット騒動と礼儀

 シャーロット命名騒動が決着しました。猿に失礼な結果にならずよかったと思います。動物園が王室に問い合わせたときは、電車で「隣の席に座ってよろしいですか」と尋ねているような印象を受けました。答えはほぼ決まっている愚問ですが、そもそも「礼儀」という理屈では割り切れない問題ですから、こういう愚問もやむを得ないのかもしれません。

 「礼儀」はほとんどが上下関係に関するものです。「親しき中にも礼儀あり」とは言いますが、それは親しき中にも上下関係があるのを忘れるなと諭しているわけです。お客様、目上の人、上司、親、先輩、やんごとなきお方に対して失礼のないようにするのが礼儀であって、そもそも対等な関係ではないという前提があります。 

 今回の苦情も、人間とサルは対等な立場ではないというもっともな意見のように一見思えます。先週の多部未華子主演の「ドS刑事」は,自分の娘と同じ名前をペットの犬に付けた父親が娘から恨まれ,そこから事件が起こるという話でした。父親の気持ちは,犬も娘もカワイイので同じ名前を付けたのですが,娘は自分も犬もカワイイとは思っていないと受け取ったわけです。まあ、同じ家の中で同じ名前を付けるのはほかにも問題がありそうですが、よその子供と自分のうちの犬が同じ名前なんてことはいくらでもあります。

 人間と犬は対等な立場ではなく、人間を犬扱いするのは失礼どころか人権問題です。例えば、子供にポチと名付けるのはやめたほうが良いです。しかし、犬を人間にようにかわいがるのは別にかまいません。シャーロットという犬もたくさんいるでしょう。高崎山の動物園も英国王室を猿扱いする意図はなく、猿がかわいいので英国王室にあやかっているだけであることは明白です。にもかかわらず、失礼だと感じる人がいるのはなぜでしょうか。

 なんとなくですが、王室や皇室は特別だという感覚がまだ残っているような気がします。特別だというのは人間と猿が対等ではないように、王室と平民は対等ではないという感覚です。仮に人気のアイドルの名前を動物園の猿につけたら苦情がくるでしょうか。アイドルも英国王室も同じ人間ですから同じ反応にならなければ理屈は通りません。

 しかし、礼儀は理屈ではないのですね。親を名前で呼ぶのは最近増えているそうですが、私には違和感があります。この違和感は単なる習慣に過ぎず根拠はありません。礼儀で維持される上下関係は内容を問いません。まったく尊敬できない親でも先輩でも形式的に敬わなければならないのです。子供より一日の長のある親を立てるのはそれなりの理由がありますが、老いて認知症になっても敬うのが礼儀です。あまり実権がなくなった王室の類も同じなのかどうか私にはよくわかりませんが、親や王室に対してではなくて、それを取り巻く人々を気にしているのは確かであるように思います。取り巻く人々は自分と利害関係があるので、そういう意味では礼儀も功利的なものかと思います。