自由意志

喫煙者に厳しい世界になったもんだ
http://hikashamk5.hatenablog.com/entry/2015/04/28/223000 

 何故吸い始めたかって?
大好きなアニメキャラに憧れた
と言うアホみたいな理由で吸い始めてる。

喫煙者の俺が言うけど、
全く吸わない人は今後タバコを吸おうなんて考えを持つこと自体やめたほうがいい
と思う。

だけど吸っちゃったらしょうがない。
それなりの覚悟が出来たとき意外は多分辞めることなんて出来ないと思う。

だからね、今から「タバコ吸ってる俺カッケー」とか思いたいが為に喫煙を始めようと思ってる人がいたら絶対にやめたほうがいい。

「タバコは百害あって一利なし」なんていうけど、それは非喫煙者に対するものであって、既喫煙者にとって喫煙することは「百害あって五利あり」ぐらいなんだわ。

■「自由意志」も外部刺激への反応で,純粋に内発的なものはないような

 今の社会は,年寄りに対して「迷惑だからもっときびきび動け」と厳しく当たっているような気がして来ました。

 リンク先のひかしゃさんが吸い始めた動機は「大好きなアニメキャラに憧れた」だそうですが,おそらく未成年で喫煙を始めた殆どの喫煙者は同じような動機ではないでしょうか。子供にとって煙草そのものは決して魅力的ではありません。なにしろチョコやアイスクリームと違って,煙たいだけです。では,何故吸いたいと思うのか。煙草にまつわるイメージが魅力的だったからでしょう。煙草は大人の世界のシンボルでした。たばこ産業はそのことを良く理解しており,宣伝のターゲットを未成年にしていました。そのことは以前に書きました。

タバコ産業の犠牲者
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/searchdiary?word=%B1%EC%C1%F0

 自由意志で決めているようで,実は他者の宣伝戦略に載せられていることは煙草に限らず良くある事です。ただ煙草の違うところは,習慣になってしまうことです。自由意志で始めたとしても,自由意志で止められるとは限りません。タトゥーと同じで一方通行なので,よくよく考えて判断する必要がありますが,残念ながら子供には困難です。

 ひかしゃさんもその点は良く分かっているので,
 
「全く吸わない人は今後タバコを吸おうなんて考えを持つこと自体やめたほうがいい」
「今から「タバコ吸ってる俺カッケー」とか思いたいが為に喫煙を始めようと思ってる人がいたら絶対にやめたほうがいい。」

 という仰るのだと思います。私の母親も喫煙者でしたが同じようなことを言っていました。

「「タバコは百害あって一利なし」なんていうけど、それは非喫煙者に対するものであって、既喫煙者にとって喫煙することは「百害あって五利あり」ぐらいなんだわ。」

 という発言もあります。これは,喫煙者と非喫煙者は既に同等ではないということを意味しています。同じであったら,非喫煙者にも五利があるはずです。しかしこの五利とは喫煙者が受けた不利益を幾ばくか回復出来るというだけです,だから,不利益を受けていない非喫煙者にとっては回復の余地が一利も有りません。具体的には,禁断症状を解消出来るという利ですが,非喫煙者にはそもそも禁断症状がありませんから,利にはならないわけです。

 とはいえ,非喫煙者は経験がないので知らないだけで,健康被害を上回る価値があるかも知れません。でもそうじゃないと喫煙者であるひかしゃさんは仰っているわけです。

 体に悪い事を止められないと言う点で,喫煙は自傷行為にも似ています。もちろん自傷行為心理的な原因があり,ニコチンによる生理的作用の喫煙とは違うものですが,外見上の行動としては似ています。自傷によって感情が落ち着くという点も,一服で気分が落ち着くというのと似ています。自傷行為にも五利程度はあるのです。ただ,一部の喫煙文化人は喫煙の利を積極的に評価しますが,ひかしゃさんは非喫煙者に勧めるほど積極的ではありません。さらに,私の母親の場合は止めたいけど止められないだけでしたので,ほとんど自傷行為でした。 

 最早,自分の意志では変更出来ない属性になってしまったと言う点で,配慮が必要なマイノリティ問題に通じるような気がします。数的にも少数になってきており,文字通りマイノリティになっています。少数派になれば,自傷行為のデメリット以外にも不利益や不便が増えてきますので,配慮が必要になってきます。

 リンク先の記事の後半は,少数派への無理解や余計なお世話にほっといてくれと不満を述べています。

■外部の影響を受けない究極の自由意志 ー 固定化した行為
 自分の日常の活動を振り返って見ると,多くが習慣で無意識に行っていて,自由意志で決断することなど殆どありません。一見,決断をしているような場合も有りますが,その決断の根拠は,外部の情報なのです。外部からのインプットに応じてほぼ機械的にアウトプットしているだけという感じなのです。もし,インプットつまり外部からの刺激がなくなると,なんの活動も出来なくなってしまうような気がします。このようなことから,自由意志も外部刺激への反応ではないかと思えるわけです。

 煙草は吸わないと私は決断していますが,それはたまたま現代の外部からの情報や刺激が吸わないように決断をさせるからです。もし,百年前に生まれていたら多分吸っていたかも知れません。無意識でも自由意志でも,外部からのインプットに応じて臨機応変に対応できることが重要ではないかと思えます。純粋に内発的な行為はあるのでしょうか。

 煙草の最大の問題は,この臨機応変の反応を固定化してしまうことじゃないかと思います。状況が変わっても吸わないという決断に変更することが困難なのです。幸いにして,この固定化は喫煙習慣に限られていますので,健康影響以上の利があると合理化出来れば,自傷行為のような心理的な葛藤はあまり生じません。でも百害に対して五利では合理化も困難です。さらに,マイノリティになると,社会のマジョリティとの摩擦が生じてきます。喫煙が価値あるものなら,摩擦をものともせず我が道を貫けば良いのですが,固定化で止められないだけなのに,世間の風当たりはますます強くなっています。

 私の母親は旨いとも感じない煙草が止められませんでした。祖父は気管支炎で苦しんでいたのに医者に隠れて煙草を吸っていました。兄は,肺がんで入院して禁煙しましたが,時既に遅く還暦前に無くなりました。厳しさは被害者の喫煙者ではなく,たばこ産業に向けるべきと思います。