電王戦と将棋の美学

 将棋ソフトにハメ手で勝つのが美学に反するという意見があります。しかし,美学は人間相手の勝負では意味があっても,コンピューターソフトでは意味があるのでしょうか。

 ハメ手が使えるのは相手の棋力が低いことが分かっているからです。相手の棋力が分からなければ使えず,最善手を指すことになります。最善手と言っても,自分が最善手と思う手であって,あくまで自分の棋力レベルでの話です。ハメ手を嫌う美学というのは,自分の棋力より低レベルの手は指したくないという自負心だと言えます。

 ある意味でこの自負心は相手に対して失礼とも言えます。なぜなら,美学の棋士は自分と同レベルの仮想対局者と勝負をしているのであり,目の前の相手は無視していることになるからです。気取った言い方をすれば,自分自身と闘っていると言えます。

 ただ,この美学は,単なる自己満足ではなくて,自分と同程度の棋力の相手との勝負でなければ面白くないというもっともな理由もあると思います。プロ棋士が子供相手に勝っても嬉しくは無いでしょうし,実力が拮抗しているからこそ観戦者も面白いからです。スポーツやゲームというのは大体そうです。だから,実力レベルに応じてリーグが分かれているのです。

 ところがですね,電王戦はその前提が成り立っていません。コンピュータソフトの棋力ってよく分からないではないですか。少なくとも人間と同じようには棋力を測れません。ある局面では簡単なハメ手に引っかかるかと思えば,別の局面では人間がとうてい及ばないような読みをします。このような相手に美学の勝負をしても,結局面白くないのではないでしょうか。美学の勝負が面白いのは拮抗した相手としのぎを削っているからです。コンピューターソフト相手に美学を貫いても,独り相撲のような気がします。

 いわば,異種格闘技戦のようなものです。異種格闘技では実力を測る共通の物差しがありません。従って,どのようなルールにすれば面白いかも良く判りません。一瞬で勝負がついたり,延々と闘いが続くというつまらない勝負になりがちです。従って,観客に面白いと思わせるためにはルールの調整が必要になって来ます。その調整ができてしまえば,最早,異種格闘技ではなく同種格闘技の中の得意技の違い程度になるのではないかと思います。例えば,四つ相撲とつき押し相撲は技術は全く別ですが,同じ相撲の中で拮抗した面白い勝負を見せてくれます。

 電王戦もこのルール調整をやっている段階のように思えます。ただ難しいのは,コンピュータソフトがどんどん変化していくので,なかなか調整ができないだろうということです。例えば,人間と馬が競走して面白いのかというと,ハンディを付けて勝負を拮抗させなければ面白くないでしょう。でも,馬の実力が変化していくとハンディも定まりません。

 結局,電脳戦のような勝負の面白さは,安定した美学の中ではなくて,流動的なルール調整の中にあるのではないでしょうか。