儀礼を法制化する意味

国旗・国歌への対応 国立大学長に要請へ 
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150410/k10010043771000.html

 近代国家は,人の心の中までは干渉しないものだと思っていました。だから,思想信条の自由があるし,宗教には国家は係わりません。国家が係わるのは殺人や盗みの禁止といった外形的な規制だけになっていたはずです。その点で義務教育で道徳があるというのは違和感があるんですね。それぞれの学校で独自に教えるのはまだしも,文科省が統一的に心の中のことまで教育するのは気持ちが悪いです。というか,教育したところで,その効果は外形的にしか評価できませんからね。心の中までウソ発見器で調べでもしない限りです。

 従って,道徳教育とは外形的な儀礼,作法教育でしかないのかなと思います。ただ,外形的な規制が心の中まで影響しないとは言えませんので,ことは単純ではありませんが。それはともかく,国旗・国家への対応とはまさに外形的な儀礼です。この儀礼にはどんな意味があるかと考えて見ると,他者の気分を害さないということに尽きるような気がします。

 例えば,国際社会では他国の国旗には敬意を払い儀礼に従って扱わなければ失礼になります。相手がたとえ本心では敬意を払っていない北朝鮮でも取りあえず宣戦布告でもするつもりがないのなら,礼を失してはいけません。そうしないと,相手の気分を害して外交上問題を招き,ひいては自国の不利益にもなるからです。

 国内の冠婚葬祭の儀礼も同じです。本心はどうであれ,定められた行動を行い,他人の気分を害さないようにして,無用な摩擦を避けるのが目的です。取りあえず今は敵対する意志はないという表明ですから重要なことです。

 国際的にしろ国内にしろ,儀礼は他者への意志表明です。そのことから考えると,自国の国旗・国歌に係わる儀礼の意味は良く判らなくなって来ます。例えば,自分の名前には私は愛着を持っており,大事に思っています。だからといって,その気持ちを自分に表明するため,「shinzor様」と敬称をつけるのは変ですね。そもそも自分自身に表明する必要なんてありません。

 自国を愛し,誇りに思うのは当然だとは思いますが,それを儀式として表現しなければならないというのは何だか滑稽です。ここまで考えると大体想像はつきますが,自国の国旗や国歌への儀礼というのも自国への意志表明ではなくて,他者への意思表明だということです。その他者とは説明するまでもないでしょう。

 その他者がそんなに意思表明して欲しいのなら,するのはやぶさかではありませんが,国際儀礼だって冠婚葬祭の儀式だって慣習であって,法的なものではありません。法制化してしまったら,本心は違うけど罰が嫌だから渋々従っているという感じになって敬意が感じられなくなってしまうんじゃないでしょうか。

 本当の目的は自国への愛とかそんなものではない別のところにあるというのなら,その意図は理解出来ます。例えば,上述した「外形的な規制が心の中まで影響すること」とかです。賛同はしませんが。