1回だけの出来事の確率

「ふたりいる子どもの一方が男の子の場合、もう一方も男の子である確率は」
http://chalow.net/2015-03-26-3.html

 有名な問題です。私も数十年前に初めて目にしたとき,即座には納得できませんでした。この原因は,「1回だけの出来事の確率」という分かっているようでよく分かっていない概念にあると思います。

 「ある特定の兄弟のもう片方も男の子である確率が1/3」とは,どういう意味でしょうか。一人の人間は男であるか女であるかのどちらかに決まっています。中性的に1/3だけ男ということを意味しているのではないことは確かです。一つの説明は,ある特定の兄弟と同じ(分かっている)条件の多数の兄弟がいた場合にもう片方も男で有る割合というものです。この場合,ある特定の兄弟とは,条件を示す為に述べられているに過ぎず,実際に考えているのは多数の集団についてなのです。では,それ以外の意味というか解釈はあるのでしょうか。無いことはありませんが,それは後で触れます。

 それはともかく,多数の集団という解釈だとかなり明確になります。ですから,確率として扱わずに,多数回試行の頻度として扱えば,上述の問題も格段に理解し易くなります。実際に多数回試行に問題の表現を変えてみます。

 100組の2人兄弟がいます。少なくとも一人は男の子である兄弟の数に対する二人とも男の子である兄弟の数の割合は?

 あり得るケースは,(兄:弟)(兄:妹)(姉:弟)(姉:妹)の4パターンです。これらはほぼ25回ずつとなります。少なくとも一人が男の子のケースは3パターンの75回,両方とも男の子のケースは1パターン25回ですから,答えは1/3です。

 別の問題も考えて見ます。上の子が男の子(兄)である兄弟の数に対する,二人とも男の子である兄弟の数の割合は?

 答えは説明するまでもなく,25/50=1/2 です。

 このように頻度で考えると,分母を何にすべきかが明確になり,分かり安くなります。この様な解釈を哲学分野では「頻度主義」と言うそうです。ただ頻度主義では1回だけの出来事に頻度を割り当てることが困難であるという理由で,主観確率という別の考え方もあります。素朴な感覚としても,多数回試行の頻度割合と1回だけの出来事の確率は違う感じがしないでもありません。そのためか,上述のような頻度での説明を聞いても釈然としない人もいるのではないでしょうか。しかし,それは「確率の解釈」と「確率の判断への応用」を混同した勘違いではないかと私は考えます。以下にその説明を試みます。

 哲学では頻度主義やら主観確率やら出てきますが,数学ではそう言うことには関知していないようです。どちらだろうと,それは数学の解釈の話で,解釈はご自由にどうぞという立場だといえます。そもそも現代の公理的確率論では,確率の意味に付いては言及していません。公理的幾何学が「点」や「線」の意味を定義せずに,ただそれらが従う公理だけを述べているのと同じです。この立場では,確率が従う約束事(公理)だけが決められており,多数回試行の頻度割合はその解釈の一例に過ぎないということになります。従って,別の解釈も自由です。1+1は,1個のりんごにもう1個のりんごを加えた総個数と解釈してもよいし,1㍑の水に1㍑の水を加えた総量と解釈しても構わないのと同様です。

 数学の理論も発祥を遡れば具体的現象ですが,完成された理論は抽象的エッセンスのみです。従って,抽象的理論の解釈として元々の発祥であった具体的現象以外の解釈をしても構いません。確率も発祥を遡れば多数回試行頻度割合という具体的現象です。そこから抽象的エッセンスを抽出して確率という概念ができました。そうだとしても,確率という抽象概念の具体的解釈として多数回試行頻度割合以外も考えれば考えることはできます。

 ならば確率を「1回だけの出来事の確率」と解釈することも可能に思えます。しかし,この言い方にはおかしなところがあります。確率の具体的解釈の中に「確率」という言葉が入っているところです。具体的解釈といいながら,抽象的な「確率」を再帰的に述べていて解釈になっていません。本来ならば「1回だけの出来事の○○」と言うべきで,○○には確率を計算できる具体的現象が述べられている必要があります。


 例えば,「平和」という抽象概念の具体的事例として「戦後の日本の平和」という言い方をしますが,正確には「戦後の日本の状態」と言うべきです。「戦後の日本の状態」とは異なる「戦後の日本の○○」が存在するのではないのは明らかです。ところが,確率の場合だと存在するかのように感じるわけです。

 つまり,現実には「1回だけの出来事の○○」という具体的現象は何処にも存在しません。存在するのは「1回だけの出来事」です。実際に行っていることは,「1回だけの出来事」の判断に確率を参考にしているだけです。1回だけの出来事に確率的要素はないので,そこから確率の数値を導き出すことはできません。

 これは,多数の小学1年生の平均値を用いて,特定の小学生の身長を推定することに似ています。「特定の小学生の身長の平均値」なるものは存在しませんし,そのような言い方もしません。一方,確率の場合は「1回だけの出来事の確率」という言い方をしますが,正確には「多数回試行の頻度割合から推定した1回だけの出来事の蓋然性」なのではないでしょうか。「1回だけの出来事の蓋然性」は抽象的な概念ですから,直接的に測定したり計算することはできず,多数回試行の頻度割合と同じとみなすと決めているに過ぎません。必然的にそうなるのではなく,決めたのですから判断(裁定)になります。

 もちろん,そのような判断が妥当であるかという問題はありますが,それに興味があるのは哲学であって数学の知るところではありません。実際,1回だけの結果ではその判断が正しかったかどうかは分かりません。結局,同じような判断を多数行ってみなければ分からないのです。哲学では,1回だけの出来事の確率を説明する「傾向説」なるものもありますが,実際に傾向から確率を計算することは出来ず,単に名前を付けただけに見えます。

 まとめ

・1回だけの出来事の確率とは抽象的な概念であり,直接具体的に測定や計算できるものではない。

・直接具体的に測定や計算のできる「多数回試行の頻度割合の極限値」を1回だけの出来事の確率の値とするのは決め事であり,1回だけの出来事の蓋然性の判断行為である。その意味で「主観確率」という表現は一面の真理を突いている。

・にもかかわらず,「多数回試行の頻度割合の極限値」とは異なる「1回だけの出来事の確率」があるかのような勘違いがある。

・この勘違いは,「1回だけの出来事の確率」という言葉の使い方の混乱に起因する。

・この勘違いのため,モンティホール問題や二人の兄弟の問題が分かりにくくなる。