素朴な感情のもたらすもの

「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治
亀井伸孝 / 文化人類学、アフリカ地域研究
http://synodos.jp/society/13008

 ・曽野綾子氏の産経新聞コラムには、第一の誤謬「人種主義」と、第二の誤謬「文化による隔離」の二つの問題点がある。
・現状において、より危険なのは、第二の誤謬の方である。
文化人類学は、かつて南アフリカアパルトヘイト成立に加担した過去がある。
アパルトヘイト体制下で、黒人の母語使用を奨励する隔離教育が行われたこともある。
・「同化」を強要しないスタンスが、「隔離」という別の差別を生む温床になってきた。
・「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」を展望したい。そのために変わるべきは、主流社会の側である。

■「人種主義」よりも「文化による隔離」が危険

 「人種主義」よりも「文化による隔離」の方が,より危険である,とはおそらく次の様な意味と解釈しました。人間のような社会的生活をおくる動物は,似たもの同士で群れたがります。気心の知れた仲間といるのが心地良いのは自然なことです。そうすれば,外部への警戒に余分なエネルギーを消費しないで済むというメリットがあり,専門分業化によって生産性を高めることもできます。似たもの同士が共有するのが文化であり,群れることが「文化による隔離」です。これ自体は自然な行為でメリットがあります。ただし,群れが対等でなくなると差別となり,差別された弱小群れは危険な状態になります。この際の群れを特徴付ける目印は恣意的に様々なものが選ばれ,人種はその一例です。根っこにあるのは「文化による隔離」というような意味ではないかと思います。

 言い換えると,「人種主義」は,「文化による隔離」の一つの結果ですが,現代においては許容出来ないと評価が定まっています。従って,人種主義を標榜する極端な主張は殆ど見られず,主張しても支持される可能性は極めて少ないと言えます。つまり,それほど危険ではないということです。

 しかし,より素朴な「文化による隔離」には,評価の定まらない隔離が多く存在します。実質的には人種主義であっても,呼び方を変えるだけで別物に見え,支持を得る可能性も有り得ます。名称は馬鹿に出来ないのです。実際に曾野綾子氏は「人種主義」などもってのほかと否定しますが,具体的に主張している「文化による隔離」は「人種主義」と区別出来ません。政府による強制ではない自主的な分離はむしろ危険な場合すらあります。抵抗し難い空気なるものは,政府による強制以上の社会的強制と言えるからです。素朴な感情はこの様な空気(社会的強制)を強化し易いです。

 たまたま,次の記事を目にしました。

PTAが母子家庭の私に癌の診断書を提出しないと役員免除はさせないと言う
http://topisyu.hatenablog.com/entry/group_violence

 言うまでもなく,PTAは任意の団体であり,入退会は自由です。にもかかわらず,役員を強制される空気があります。もし拒否すれば,子供が不利益な扱いを受けたり,場合によってはいじめに遭うかも知れないという空気です。

 子供の話になったので,もう一つ付け加えます。ちびまる子ちゃんは,たまちゃんと気があって一緒に遊ぶことが多いのですが,みぎわさんや前田さんは少々苦手です。仲良しグループは自然と出来るもので悪いことはありません。ところが,仲良しグループ間に勢力の差が生じてくると事情が変わってきます。主流派が少数派をいじめる事態もしばしば起こり社会問題になります。人間は自然のまま,素朴なだけでは差別に至る傾向があると言えるでしょう。これを防ぐには意識して自制しなければなりません。あえて奇矯な言い方をすれば,差別を防ぐことは不自然な行為なので努力が必要です。

 チャイナタウンや仲良しグループとアパルトヘイトやいじめグループには天と地の開きがあります。ところが,自覚もなくその開きを易々と超えてしまうことがあり,その実例が曾野綾子氏です。重要なのは,曾野綾子氏は決して特殊ではなく,素朴なままでいると誰でも一線を越えてしまうことがあることです。汚職事件などと同じで,悪いという自覚もなしに犯罪に手を染めている場合が良くあります。

■「同化」と「隔離」 

 差別における「隔離」と「同化」は現象として対照的ですが,根は同じではないかと思います。どちらかと言えば「同化」が根に近く,「同化」が難しい場合に「隔離」が行われるのではないでしょうか。

 前述のとおり,社会的動物は似たもの同士の「同化」社会を維持したいという欲求があります。社会に参加するには「同化」することが必須であり,それは教育などで維持します。それでも,異分子が内部に発生することもありますし,外部から流入することもあります。その同化に失敗した場合の措置は社会からの抹殺です。抹殺には死刑,あるいは追放という手段が執られます。追放の1種が「隔離」です。

 なぜ,「同化」が必要かというと,放っておけば,社会はどんどん変化していくので,それを阻止するためです。変化は良い場合も多々ありますが,「同化」の観点からは退廃や劣化とみなされます。何故,劣化なのかと言えば,既得権益に係わっています。変化によって社会全体の利益が向上しても,従来から利益を得ていた既得権層がその恩恵に預かれるとは限りませんので,出来るだけ現状維持を望むわけです。

 現状維持ということは保守思考ということで,保守政策では既得権益を脅かす外敵の脅威が強調されます。これは差別と親和性が高いといえます。だからといって,革新が差別しないわけでなく,保守以上に酷い場合もあります。ただ,外敵の脅威という手法は保守になじみやすいというだけです。

 「同化」が難しい場合に「隔離」が行われると言いましたが,制度的な死刑や追放も困難な場合は,自主的に行われるという形になります。少数派文化の自主的な隔離を尊重しているというスタンスをとるわけです。そこまでは良いのですが,自主的に隔離した集団が不利な扱いを受ければ差別になります。その場合,同化せずに自分で勝手に隔離したのだからという言い訳も用意されています。

■「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」

 「隔離」された集団と没交渉になれば,鎖国のようなもので差別とはまた違った状態になります。しかし,江戸時代ならぬ現代で孤立すれば兵糧攻め状態となり差別以上の過酷さかも知れません。島流しの孤島で生活するようなものです。

 実際は完全な没交渉は殆ど無く,何らかの交渉や関係が維持されます。その際に対等な関係で無ければ差別状態と言えるでしょう。理想的には,専門分業化した集団が対等に自由市場で交易を行えば,総ての集団の利益になります。均一な同化社会よりも,専門分業化した集団が有機的に繋がった社会の方が繁栄する可能性があります。これが「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」ではないかと思います。

 歴史的には,一つの強大な集団が他の集団を搾取するという差別社会が数多く存在し,現在も存続していますが,いずれも歴史的スケールでは長続きしていません。ただ長続きしないといっても,別の搾取集団に取って代わられただけで,理想的な「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」にはなかなかなりません。それでも,少しずつその方向に向かっている希望を感じないこともありません。