自決を要求をする心理

 後藤さんに自決しろと酷いことを言う有名人がちらほらいます。それに賛同する便所の落書きもあります。これは、「見殺しにしたいけど、見殺しにしたと言われるのは迷惑だ。自決してくれたら万事うまくいく。」ということかと思います。「万事うまくいく」とは面倒くさいことにならなくて済むと言う意味で、丁寧に書けば以下のような心理かと思います。

 「そもそも後藤さんは厄介者で、救出したいという気はない。そんなことに俺の税金が使われるのは迷惑だ。「見殺しにしろ」と言いたいが、そう言えば、非人道的と批判される。全く、迷惑な話だ。自決でもしてくれれば、批判も受けず面倒なこともせずに、一挙に問題解決だ。そのくらい察して自決しろよ。」

 要するに、人命など尊重していないのに、尊重しているように思われたいという虫のいい考えです。こういう場合、「自決しろ」というのは下手なやり方です。なぜなら、「見殺しにしろ」と大して変わらず、その一言で人命を尊重していないことがバレバレだからです。もう少し頭のよい悪人は、仄めかしを使います。民事介入暴力では「金を出せ」とは明言しません。それだと恐喝になるからです。相手が自発的に金を出すように仕向けます。上手下手の違いは有りますが、相手の自発的な行為なら自分の責任ではないと言えることを期待している点は同じです。

 自決しろのような醜悪な要求はかなり特殊だと思いますが、もう少し軽めの自発的行為の要求なら私でもしたくなることがあります。いわゆる「空気読めよ」という状況です。会議で反論しようのない正論をいう人がたまにいます。しかし、その正論が通ると、私は面倒な作業をせざるを得なくなり大迷惑なのです。自分にはそんな余裕はないと反論すれば良いのですが、それだと怠けものと思われそうで嫌なのですね。そんな時、「俺に、迷惑かけていることぐらい察してくれよ」と思ったりします。そして、そう思うのが私一人ではなく結構多くいて、それが会議の場の空気です。だから「空気読めよ」と思うわけです。そういう感情というか気分は確かにあります。

 こういう感情や気分も、醜悪発言と地つながりになっているのかも、と思いました。