マンコ模型とゲルニカの芸術性と政治性

■現行法令の枠内で,「わいせつ」ではないと言いたいなら

 言うまでもないことですが、現行法令の定義する「わいせつ」はTPO次第です。性交は合法的行為ですが,公衆の面前で行えば「わいせつ」とみなされます。時と場所をわきまえないのが「わいせつ」ということになっています。

 次に示すのはご存じ「わいせつ」の3要件です。

1.通常人の羞恥心を害すること
2.性欲の興奮、刺激を来すこと
3.善良な性的道義観念に反すること

 少なくとも,1.と2.だけで違法ということはありません。例えば,マンコ模型をみて,羞恥心を感じたり,興奮する人もいるかもしれませんが,そのもの自体が善良な性的道義観念に反することと考える人はいないでしょう。もし,反するのであれば,人類の半分は存在自体が不道徳ということになります。そうではなくて,場所をわきまえないのが「わいせつ」だと警察は言っているのです。場所をわきまえるのも「性的道義観念」に含まれるのだよと。

 ところが、かつて、行為や物品自体を取り締まられたと勘違いした芸術家たちが、「性行為や性器は「わいせつ」ではなく芸術である。」と公衆に堂々と曝したりしました。「全然いやらしくない。美しい芸術である」などと言った懐かしい抗議を思い出します。残念ながら、この抗議は的外れで裁判官も「芸術であってもわいせつになる」という判決を下しました。一方で,アダルトショップや美術館の奥深くには有罪判決を受けたものと何ら変わらないものが、「商品」や「芸術」として摘発を受けることなく展示され続けています。

 芸術家はもうひとつ勘違いをしました。「わいせつ」3要件の判断は感覚的、主観的なものです。そのため、その時代の健全な社会通念に照らして判断されます。実際に判断するのは裁判官ですが、それが彼らの仕事だから仕方ありません。「わいせつ」に限らず業務上過失などの社会通念も彼らが判断します。芸術家はこの裁判の現実を失念して、自分の感覚で「わいせつ」ではないと主張したのです。その主張とは裏腹に、大抵の芸術家自身は自分の感覚が社会通念とは違うことを自覚しています。それどころか、遅れた社会通念と違うことに価値すら見出しています。これでは、裁判官を納得させるのは困難です。

 さらに、「わいせつ」ではないという主張は芸術性も否定している可能性もあります。性的表現において「わいせつ」3要件を満たさないものが、果たして芸術として面白いのかという問題があります。性欲の興奮、刺激のないお行儀の良いものを芸術家は目指していたのかということです。警察は場所をわきまえればお行儀が悪くても構わないと言っていて、芸術を認めてくれています。それに対して芸術家は、お行儀が良いから場所に関わらず認めてくれと言ってしまったのでした。しかし、本心はお行儀の悪いものを求めていた疑いがあります。

■現行法令を変えたいのなら

 多分、芸術家が自分の芸術はお行儀が良いと主張したのは、慣れない裁判で混乱しただけだと思います。前述のように、大抵の芸術家自身は自分の感覚が社会通念とは違うことを自覚しています。社会通念には法令も含まれますので、法令違反は覚悟の上、つまり「確信犯」なのです。芸術家もさまざまですから、お行儀の良い芸術家も存在しますが、「わいせつ」裁判に関わるような芸術家がお行儀の良い芸術を目指していたとはとても思えません。

 現行法令の「わいせつ」概念の否定は、現行法令の否定でもあります。そのような意見であれば、現行法令の枠内での法廷闘争では無意味で、法令改正の政治闘争をせざるをえません。仮にその政治闘争に勝ち、晴れて自分の芸術が合法的になった瞬間に、その芸術はお行儀が良いと公認されたことになってしまいます。果たして、それで満足なのか疑問がありますが、とりあえず満足だと仮定すると、その芸術には政治闘争の要素は無いはずです。純粋に芸術的な要素で価値が無ければならないはずです。

 もちろん、政治闘争の要素がないというのは、合法的になったという状況だからであって、非合法の状況では政治的メッセージを持つと言うことはあり得ます。しかし、合法的状況になって政治的メッセージが用済みになっても、芸術的要素が残っているのでなければ、芸術とは言えないでしょう。例えば、ピカソゲルニカの政治的メッセージは今では用済みですが、現代でも芸術的価値が認められていることになっています。個人的には価値を感じませんが、それについては後述します。

■政治的メッセージを取り去った後に残るもの

 時限的な政治的メッセージとして有効だとしても、普遍的芸術価値を持つとは限りません。その種のものは、時が過ぎれば歴史的資料に過ぎなくなって、博物館に収蔵されることはあっても美術館には展示されません。また、政治的メッセージの主体は文章であって、造形表現は補助です。文章解説無しの造形表現だけでは分かりにくいし、極めて多義的です。つまりどうとでも受け取られます。造形表現が情動に訴えるものを持ち、説明図以上の効果を発揮するとすれば、多分普遍的芸術価値も持っています。ただし、その効果は政治的メッセージと対応しておらず、反対のメッセージにも応用できるようなものです。多義的で普遍的とはそういう意味です。

 一方で、普遍的芸術勝価値がない単なる説明図もあります。分かりやすいけど情動に訴えるものがないイラスト類です。さらに、その類のものをわざわざ分かりにくくしたものもあります。分かりにくく情動に訴えても来ないようなものです。思考が空回りした「現代芸術」もどきとでもいえるものです。私はマンコ模型を見たことがありませんので、推測でしかありませんが、作者の政治メッセージを読み取れそうにありませんし、情動も揺さぶられそうにもありません。

 実際に見たものも沢山ありますが、有名なものでは前述のゲルニカです。全くと言ってよいほど何も感じないのです。好き嫌いの問題ではありません。嫌いなものは嫌な感じを受けたりと情動を刺激されるわけですが、ゲルニカには無味乾燥な折り込みチラシ程度の印象しか受けません。といって、誰にとっても価値がないとは言いませんが。