イタリア 地震学者逆転無罪

地震情報巡り有罪の学者らに逆転無罪
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141111/k10013102741000.html

 この裁判の1審判決の時は驚きました。地震予知に失敗すれば犯罪になるなんて考えられなかったからです。もちろん過失があれば有罪も仕方ありませんけどね。ただし,過失とは当然行うべき事を行わないことであって,結果を出さないことではありません。医療事故などでも,過失があったという過程が有罪の根拠であって,治療に失敗したという結果は無関係です。結果は約束できないからです。医療は請負契約ではありません。

 ところが,このイタリアの1審裁判報道ではどんな過失があったのか判然としませんでした。単に地震予知に失敗して有罪という説明しかありませんでした。それに,過失と判断されるのは,標準的な手続きが定まっている場合です。地震予知でも手続き違反があったというような行政訴訟なら理解出来ますが,地震学者が訴えられのは,学術的な判断を司法が裁くようで違和感があります。もっとも,学術的判断に近い医療行為の過失も問われますが,それは標準的な医療行為が確立されているからです。専門家たる医師なら当然その標準的行為を行う責任があるという考えです。医療でも学術的に決着が付いていない事柄では罪を問うことはできません。

 薬害エイズ事件の故安部英医師が無罪になったのも,このような理由です。結果的に患者さんをエイズに感染させてしまったわけですが,当時の医学的知見ではやむを得なかったからです。その経緯に付いては「安部英医師「薬害エイズ」事件の真実(武藤 春光 , 弘中 惇一郎)」に詳しく述べてあります。安部英医師は血友病患者のために献身された偉人であると分かります。

 今のところ,地震予知は確立されているどころか全くあてになりません。専門的な事柄で過失と判断できるようなことは殆どないと思います。観測データを全く無視したというような分かり安い怠慢でもなければ過失有罪の認定は難しいと思います。単に地震予知を失敗しただけで有罪なら,失政の政治家,売り上げ不振のセールスマンも有罪になってしまいます。過失はないという2審判決は妥当ではないかと思います。 

 それで,思い出したのが大飯原発運転差止訴訟判決です。

http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20140523/1400834664

  • 原発の是非は裁判所が判断することではないような-

http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20140526/1401093633

 この判決は,原発の是非という政治的判断を裁判官がしているようなところがあります。その政治的判断の是非はともかく,裁判でそれを言えば三権分立に反します。裁判官が行えるのは,安全審査の手続きの不備のような過失を認定することだと思います。しかし,判決の前半には「事故が発生すれば甚大な被害をもたらす原発は許されない」という政治的信条のようなものが述べられています。これは,そもそも原発は認められないのであって,安全審査の不備以前の問題だということです。100%の安全というものはあり得ないので,100%の安全が必要なものは認められないという考え方です。実際の判決はそれほど単純ではなく,考え方が揺れ動いているのですが,最終的には100%の安全が必要だといっていると読み取れます。

 100%の原発の安全も100%の地震予知も不可能です。現実には,許容する確率を定めそれ以下になっていることを確認するしかありません。しかし,その確率計算も確実なものではありません。なので,行うべき事柄を規定として定めそれに従っていればよいとみなすのが実際上の運用です。その規定に反しているときのみ法的責任を問えます。この事情から分かるように規定は暫定的なもので常に改善され変化していくものです。規定が100%の安全や100%の予知を保証するものではないのは最初から了解されているはずなのです。了解しないのなら,そんなものは認めないという政治的立場ということになります。

 一般人は専門家の能力を過信しているのか過剰な要求をすることがあります。その傾向は裁判官でも時々見られるように思います。一般人と違って裁判官の判断は影響が大きいのだけど。

追記

この事件は,地震学者の委員会の結論とは異なる安全宣言を行政が行い,それに対して地震学者が何も抗議しなかったということらしいです。そう言う意味では地震学者にも何らかの責任はありますが,一番責任のある行政が起訴されていないのですね。

ー裁かれた科学者たち ラクイラ地震で有罪判決ー
http://facta.co.jp/article/201302018.html