道徳教育とフィクション

江戸しぐさ」や「水からの伝言」は創作としてなら道徳教育の中で使えるか
http://dlit.hatenablog.com/entry/2014/08/27/093052

確か水からの伝言の問題でも「いい話なんだからフィクションとしてなら道徳教育で用いて良いのでは」という話はあった気がする。

 水伝や江戸仕草がフィクションでは全く説得力も持たないことは直感的に分かりますが,一般的に道徳教育でのフィクションの扱いはどんなものだろうかというdlitさんの疑問かと思います。そこで,考えて見ました。

 イソップ物語の一つ一つのお話はフィクションですが,お話から読み取れる教訓はフィクションではありません。「いい話なんだからフィクションとしてなら道徳教育で用いて良いのでは」というのは,全くフェーズのちがう事柄を混同しているように思います。

 寓話や説話には物語があって,それが人の心に訴えかけます。物語というのは1つの具体例であって,それが事実であるか創作であるかは問いません。例えば「稲村の火」では,犠牲的な行為で村人を救うという物語に人々は感動します。映画や小説に感動するのも同じです。しかし,一般的にその種の物語や実話に人が感動することはフィクションではなく,本当のことです。犠牲的行為は感動的であるという一般的言明は本当のことですが,感動を引き起こしません。一方で具体的な犠牲的行為の物語については史実でもフィクションでも感動的なのです。

 また,「いい話」を聞かせるのは,感動しなさいと教えているのではありませんし,それは不可能です。人間に本来備わっている「感動」という感情をフィクションで疑似体験させて思い出させているだけです。「感動」は心地良い経験であり,それを数多く経験することで,実際にもよい行為を行うようにさせようというのが道徳教育でしょう。本来備わっている性質でも眠らせていると鈍ったり枯渇してしまうことがあるので,教育するわけです。

 水伝の場合の本当でなければならない一般的言明は,「ありがとうという言葉で自分も相手もよい気持ちになる」です。一方,ありがとうという言葉をかけたら自分も相手もよい気持ちになったという1つの具体例の物語はフィクションでも構いません。

 では,水伝の核心部分「ありがとうという言葉できれいな水の結晶が出来る」は何故必要なのでしょうか。いうまでもなく,ありがとうという言葉で自分も相手もよい気持ちになったという物語に感動しない相手を感動させるためです。そんな相手でも,きれいな結晶が出来れば,よい気持ちになったという物語には感動するだろうという前提と組み合わせればそれが可能になるからです。当然のことですが,きれいな結晶が出来て,よい気持ちになったという1つの具体的物語はフィクションでもかまいませんが,「ありがとうという言葉できれいな水の結晶が出来る」が嘘では成り立ちません。

 江戸仕草も同じように考えられます。本当でなければならない一般的言明は「他者に配慮した振る舞いは自他共に気持ちよい気分にさせる」でしょう。これが本当であることは,実際にそう言う経験をすれば分かる訳です。実際ではなくて,フィクションで疑似体験しても感じることができるでしょう。それで十分で,他者に配慮した振る舞いが外国のものでもよく,別に江戸が発祥である必要は一切ありません。

 大抵の人はそうですが,感じられないという人のためにねつ造されたのが江戸仕草と言えます。この場合,ナショナリズムや郷土意識をくすぐっているわけです。我が国の伝統だから素晴らしいものであると思わせるわけです。この手法は効果があって,TVでも日本の良さを強調した番組が多く有ります。あれを見ていると確かに気分が良くなるのです。豚もおだてりゃ木に登るんですね。でも,それが嘘だと分かれば良い気分は吹っ飛びます。

 他者に配慮した振る舞いで,自他共に気持ちよい気分になったという具体的物語が「いい話」であって,これはフィクションでも構いません。しかし,江戸仕草がフィクションでは郷土意識はくすぐられませんね。