後知恵の社会コスト

 ダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」に医師もお役所仕事になりがちであるという記述があります。

 標準的な業務手続きに従っていさえすれば後からとやかく言われる心配はない,というわけで,自分の決定が後知恵で詮索されやすいと承知している意志決定者は,お役所的なやり方に走りがちになり,リスクをとることをひどくいやがるようになる。医療過誤訴訟がひんぱんに行われるようになるにつれ,医師は多くの面で手続きを変え,検査の回数を増やし,患者を専門医に回すようになり,さほど役に立ちそうになくても慣例通りの治療を施すようになった。これらは患者に恩恵をもたらすというよりは,医師の立場を守るものであって,利益相反の可能性は否めない。こうしたわけだから,説明責任を増やすことはよい面ばかりとは言い切れない。

 これは「後知恵の社会コスト」という節の文章です。公務員や医師をお役所的にさせるのは,後知恵で批判する国民や患者なのですね。個人的な付き合いでの説明は相手を納得させ,府に落ちたと思わせなければなりません。しかし,訴訟というレベルの「説明責任」は相手が納得せずとも裁判官が有利な判断をしてくれれば良いわけです。そのためには,法律やルール通りなのだから,文句を言われる筋合いはないという形式的説明になります。

 このような釈然としない形式的説明になってしまうのは,説明を求める側が過剰な要求をするからで,過剰になるのは後知恵で考えるからです。後知恵では結果が出ているので,判断や決定の正否は明白に感じてしまいますが,判断の時点では悩ましくも難しい決断であることが多いのです。津波が襲った後では,発生することが分かっていたのは明白だと思い,対策を怠ったのは怠慢であり失策であるのは間違いないと感じます。しかし,発生前に,莫大な費用を注ぎ込む対策の決断は相当悩ましいはずです。

 後知恵批判を受けないためには,事前にすべてルールを定めてその通りに行い,よかれと思っても余計なことはしないことです。また,臨機の判断はできるだけ避け,避けられない場合は,判断を相手側に投げることです。行政では「住民参加」,医療では「インフォームドコンセント」と呼ばれる手法です。行政や医師は自分から積極的に判断することを避ける様になっています。結果的に,平均以下の行政はプロフェッショナルとしての仕事を積極的にしません。有能な行政は,自分の判断や決定を住民や国民と同じであることを手続き的に示しますが,それにはそれ相応のコストを要します。コストを節約すると,アリバイ工作とか傀儡委員会と批判されるのは良く目にするところです。

 後知恵のバイアスが如何に大きいか,私は出版に係わって感じました。専門書籍を読んでいると,ミスプリの多いことに気づきます。大量の正誤表が挟まれていたり,正誤表の正誤表があったりします。出版者や著者の怠慢を日頃から感じていました。ところが,自分がいざ係わって見ると,間違いは無尽蔵に湧き出てくるのです。多数の人間がチェックしていて,全員が怠慢というわけではないのですけど。
 
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