「わいせつ」の誕生

ろくでなし子氏の逮捕、何が問題か?
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2014/07/post-664_2.php

現行の「わいせつ」というのは、男性の視点から見て「視覚的に欲望を強く刺激するもの」という観点であり、良く考えれば本当に「わいせつ」なのは「欲望の対象となる身体や表現」ではなく、「判断する人間の側のわいせつな気持」の方であるわけで、今回の一件でも明確なように論理的に破綻していると思います。

 「わいせつ」といえば,名前は忘れましたが有名な作家の回想がありました。たしかこんな話です。

 耳にするところによると,女の子の股間には素晴らしいものが隠されいるらしい。それがどんなものか想像すると気になって我慢出来なくなった。そこで,知り合いの女の子に頼み込んだら,見せてもえることになった。どきどきわくわくして見たら何にも無かった。

 これはチラリズムに通じる隠せば妄想と欲情を増幅するという話ですけど,チラリズムなんて懐かしい言葉です。「わいせつ」論争なんて歴史的な話だと思っていたら,いまだにやっているんですね。かつて北欧はポルノ規制がないために,誰もポルノに関心を持っておらず,ポルノ産業は外国人を顧客としてして成立しているなんて言われていました。「わいせつ」という感情は隠したり,規制することで作り出されるということです。かつてはキスを見ただけでわいせつな気分を味わえる幸せな時代も有りましたが,規制のお陰です。ここらで「わいせつ」が如何にして作られるか復習します。

 わいせつ三要件とは次の3つです。

1.通常人の羞恥心を害すること
2.性欲の興奮、刺激を来すこと
3.善良な性的道義観念に反すること

 1.の羞恥心を害することとは,嫌なものは見せてはいけないということです。グロテスクな絵などは私も見たくありませんから,無理矢理見せられたり,公共の空間に展示してあると,気分を害されます。そう言うものはみだりに流布してはいけません。ただし,出版や美術館の中の展示は見たくない人は見なくて済みますから,許容されています。一方で,性的なものを見て気分を害するというのは私には理解出来ませんが,世の中には変わった人もいますから配慮は必要でしょう。そう言う意味で公然わいせつ罪があるのだと思います。大好きな性行為も電車の中で人のやっているところは見たくはないという人も多いでしょうからね。しかし,出版物や美術品が規制される理由は私には理解出来ません。勝手なのに。

 多分TPOなのでしょう。性行為が悪いものでないのは当然です。誰だってしたい楽しい行為です。ところがが不思議なことに電車の中で見せつけられるのは嫌なのです。この感情の説明はなかなか難しいですが,自分の性行為を見られるのは恥ずかしいことと関連しているように思えます。この説明も結構難しいです。例えば,転んで尻餅をつくのを見られるのは恥ずかしいですが,人が転ぶのを見るのはそれほど嫌ではありません。むしろ笑ったりします。転ぶのは嫌なことですから,自分が転んだのを見られるのも嫌なのは分かります。他人が嫌な目に遭っているのを見るのは程度問題ですが,深刻でなければむしろ楽しいくらいです。ではなぜ,嫌でもないし,自分のでもない性行為を見るのが恥ずかしいのでしょうか。

 その理由は、恥ずかしいという感情は文化的なものだからだと思います。文化的に恥ずかしいことだとされているから恥ずかしいのです。日本では銭湯で裸を見られても別に恥ずかしくありませんが,公道上では恥ずかしいです。銭湯でも恥ずかしい文化もあれば,公道上でも恥ずかしくない文化もあります。でも,何故そんな文化ができるのかですが,多分いろいろな理由はあると思います。人前で裸を見せるのは無防備になるというようなもっともな理由があったのかも知れません。しかし,時代が変わると,そういう理由は無意味になります。それでも文化は残ります。

 合理性が無くなっても文化は尊重すべきだと私は考えますので,通常人の羞恥心を害してはいけないとも考えます。ですから公然わいせつ罪は賛成です。ですが,私的な行為や相手の了解に基づく行為は規制できないと考えます。恥ずかしいと感じる人に見せなければ良いだけです。結局1,は文化的な規制を法的規制で強化しているだけです。

 2.性欲の興奮、刺激を来すことの表現が規制されているのは,1.の規制に帰着します。性欲の興奮、刺激を来す表現を見ると文化的に羞恥心を害する人もいるからです。なお,性欲の興奮、刺激を来すこと自体は規制されていません。これを規制すれば性行為ができなくなって,少子高齢化がますます進んでしまいます。

 3.善良な性的道義観念に反すること。これはアブノーマルな性行為の表現,冷泉氏の言う「異性のセクシャリティを中傷する」表現、「望まない性的行為を強要する」表現、あるいは「性的少数者を迫害する」表現などでしょう。これらは,1.2.と違い行為自体が悪いものです。しかし,その表現も規制して良いのでしょうか。例えば,過食は肥満ひいては健康被害に繋がる悪い行為ですが,食欲を刺激するグルメ番組も規制しなければなりません。グルメ食は違法ではありませんが,カニバリズムを扱った芸術作品はどうでしょうか。犯罪を扱った推理小説はどうでしょうか。一応,描かれている行為は違法で当然行ってはいけませんが,その表現は自由ということになっています。いわゆる表現の自由です。これが制限されると悪法改正を主張するする表現もできなくなってしまいます。

 さて,3.の表現の元の行為には悪徳の魅力のようなものがあります。魅力が無ければ別に規制しなくても誰も手を染めませんから放っておけば良いです。実際には魅力があるので規制する必要があります。ここで言っているのは,元の行為のことであって,その表現ではないことにご注意下さい。私は,悪徳の行為は規制すべきだけど,その表現は自由だと考えていることは既に述べています。面白いのは,1.2の行為は別に悪くありませんが,その表現が規制されると,悪いことでなおかつ魅力があるという錯覚が生じることです。もちろんノーマルな性行為には普通の魅力がありますが,それ以上の悪徳の臭いのする魅力です。いや現代においてはノーマルな魅力は既に殆ど絶滅しており,性行為全般が何処か後ろめたい悪徳の臭いに染められています。動物も生物的な魅力を性行為に感じている筈ですが、文化的な悪徳の魅力は感じていないでしょう。これは文化や規制によって強化された人間だけが感じることのできる魅力ではないでしょうか。麻薬的に強力なので,ノーマルでは満足できなくなるほどのものです。文化と規制のなせる技です。

 食欲も似たようなもので,様々な悪徳の食(グルメ食)が開発されます。栄養学的には全く無意味ですが,専ら快感の為に人類は開発に日夜励んでいます。危険(フグなど)であったり,資源保護(ウナギ)の観点から規制される事はありますが,概ね自由で規制はありません。当然,悪徳の食の表現(グルメ本など)が規制される事は先ずありません。翻って性欲は文化的忌避や規制が非常に多いのは何故でしょうか。おそらく妊娠,出産という大きな現実の問題を引き起こすからではないでしょうか。食欲は野放しにしても,本人が糖尿病になるだけですが,性欲は社会的に支障を招きかねません。このような支障は防ぐ必要がありますが,現代では非常に簡単で有効な方法があります。避妊です。これさえしっかりコントロールしておけば,性欲を野放しにしても,食欲程度の問題で済む筈です。しかし,既に宗教的タブーのような文化になっていると,それも難しくなります。

 犯罪はダメですが、犯罪を取り扱った表現は原則自由です。しかし、犯罪を取り扱った表現は犯罪の原因になるということで、予防的に取り締まりたい警察関係者や取り締まって欲しい国民もある程度存在します。この予防的取締は危険な面があります。凶悪犯罪を行う可能性の高い男は逮捕され、性犯罪を引き起こす性器は去勢とまでは流石にならないでしょうが、禁酒法のような例は他にもあります。