原発だけではない「安全神話」

日本の原発議論に再び忍び寄る「安全神話
 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41230

 リンク先では,国の指導者は「安全神話」を唱え,国民心理を変えたと述べています。つまり,国民は騙されたってことですが,単純に一方的に騙されたかというと,微妙に思えます。

第一に,原子力災害対策特別措置法原子力損害の賠償に関する法律が有るのですから原発事故が起こりうることは国の指導者も認めているのです。また,絶対事故が起こらないテクノロジー,例えば絶対に事故を起こさない自動車,絶対に墜落しない飛行機のようなものを国民は信じていたというのは疑わしいです。とはいいながら,事故が起きた時に「話が違う」という反応は起きます。これは起きない筈の事故が起こったということではなく,数百年に1回しか起こらない筈の事故が数十年に1回の頻度で起こったのではないかという反応かもしれません。ただ,確率的な理解をしているとは思えませんし,次の様な計算をすればやはり「安全神話」を信じていたようにも見えます。 

 世界中に430ほどの原発がありますが,これまでに重大な事故は3回起きています。平均10年稼働していたとすると,1400年に1回の頻度です。これが許容できないとなると,安全神話に騙されていたと考えざるを得ないことになりそうです。

 もっと単純な見方もあります。「もちろん安全神話など信じていない。自分とは無関係の所で事故は起こるのは仕方無い。しかし,1回でも我が身に事故が降りかかるのは許せない。」随分身勝手な考え方のようですが,これは考え方というより感情の問題なのかも知れません。手術がゼロリスクであると信じる患者はいません。にもかかわらず,自分の手術が失敗してしまうと確率的にあり得る失敗とは思えず,何かしらの過失を疑う感情は抑えきれません。人間は絶対安全はあり得ないことを一般知識としては理解していますが,自分自身のことになると感情的にゼロリスクを求めるし,ゼロリスクでないと心理的に耐えられない面があるのではないでしょうか。

 別の例も考えて見ます。航空会社は安全性を宣伝します。優秀なパイロットと万全の整備体制をPRしていますが,大方の人は事故が起きることを知っています。絶対安全などないことは理屈としては知っています。しかし,読者の皆さんは自分が載る飛行機が落ちるかも知れないことを意識しているでしょうか。そんなこと考えたら気分が悪くなります。その一方で保険に入ったりしますから,知識としては事故の可能性を認識しています。一般知識では絶対安全を否定しているのに,自分の載る飛行機は例外なのです。そして,事故が現実になると仕方無いと諦めたりはしません。航空会社の責任を問います。さらに,事故の後も今までと同じように飛行機を利用するでしょうか。人によって違うと思いますが,しばらくは二度と飛行機には載らないという人も多いのではないでしょう。

 でも,これは考えて見れば奇妙です。事故の可能性を認識していたのですから,事故が起こっても行動には変化がないはずです。人ごとの事故ならその通りですが,自分が事故に遭うと違って来ます。感情の面でも事故の可能性を認識していたのかは大きな疑問です。感情的には絶対安全でなければ耐えられないように思えます。

 事故を起こすのが自分自身,つまり加害者側の場合は,自分に関するゼロリスク信頼は最悪の結果を引き起こします。読者の皆さんは当然,飲酒運転はしないでしょう。でも時々,新聞に飲酒運転の事故が報道されます。運転者は「大丈夫だとおもった」と供述します。運転者は交通事故が頻繁に起こっていることも,飲酒が危険なことも一般知識としては知っています。ところが,自分のことになると大丈夫だと過信します。自分に関しては絶対安全があると思っているとしか考えられません。

 いや正確には絶対安全があるとは考えてはいないでしょう。そこまで馬鹿ではありません。ただ,自分が事故に遭ったり,起こしたりすることを考えないようにしているのではないでしょうか。しかし,リスクから目を背けるのは絶対安全を信じているのと結局,同じになってしまいます。いや飲酒運転なんかするのは馬鹿でしかないと考える人もいるかも知れません。そう言う人はモバイルフォンの運転中の操作も絶対しない筈ですが,果たしてどうでしょうか。

 人ごとは理屈で考えられますが,我が身のことは感情的にならざるを得ません。例えば,隣地に化学工場立地計画が持ち上がったとします。工場側は安全なことを周辺住民に説明しますが,あなたは納得出来ない筈です。化学工場では,時々爆発事故が発生し,敷地外まで破片が飛散したりしているからです。しかし,それは非常に希で,交通事故に比べれば遙かに安全です。隣に怪しげな人物が引っ越して来るより安全かもしれません。自動車を利用しているなら,工場を拒否するのは理屈が通りません。でも,拒否するでしょう。

 この場合の解決策は,化学工場は住宅地の隣地には作らないことです。普通は工業地域にしか立地出来ない筈で,仮に事故が起きても,隣の工場の迷惑になるだけです。ただし,公道の通行人や車が被害にあう可能性はあります。しかし,不思議なことというか当然というか,それを気にする人はあまりいません。自分の家で被害に遭うのは許せないけど,道路上で被害に遭うのは運の悪い他人で自分は大丈夫と思っているのかもしれません。

 てなことをつらつらと考えていると,人間は感情的には絶対安全を求めてしまうものという気がしてきます。薬には副作用もあると分かっていても,我が身に起こったら,医者や製薬会社の責任を問いたくなります。医者側としては無制限に責任を問われてはたまりませんから,検査や手術では同意書をもらいます。絶対安全ではないことを了解している証拠としてです。同意書のようなものが必要だということは,患者は絶対安全を求めているといることの裏返しです。医療という不確実なことでさえ,人間は感情的には絶対安全を求めます。

 医療のように事故の可能性が比較的高い場合は,同意書の類が必要になりますが,事故の可能性が低くなるとリスクの説明がちゃんと行われなくなっていきます。新築建築物の住民説明で,火災で迷惑を掛ける可能性についての説明まではしませんし,車のディーラーは事故率の説明もしません。それでも,事故が皆無ではないことは暗黙の了解になっています。これが原発になるとおかしくなってきます。原発だって人間のテクノロジーですから事故が皆無ではないのは明らかです。でも暗黙に事故を了解していたとは誰も言わず「騙された」と言います。

 どんなものにもリスクはありますから,それを受け入れたということはリスクも同時に受け入れたことになります。もちろん無制限ではなく限度があります。限度を超えた場合は何らかの過失や嘘が疑われますので追及されます。ところが,わずかのリスクでも受け入れられないものもあります。その場合は,リスクの元のものを受け入れてはいけないのであり,あり得ないゼロリスクを期待して受け入れてはいけないのではないでしょうか。 

 反原発運動はしばしば原発推進派の過失を批判します。福島第1原発についても批判がありました。しかし,この批判だけしかしないのであれば,過失が無ければ原発を認めることになります。原発を否定しているのではなく,個別事例の実行上の過失を追及しているだけになります。欠陥車を批判しているのと同じレベルの批判でしかありません。過失の批判だけを続けていくと,原発は限りなく安全に近づいて行きます。通常はコストとの兼ね合いがあるので限度がありますが,原発は実質国営事業なので,無駄な投資に歯止めが掛からないおそれがあります。電力自由化以前はむしろ高コストの方が電力会社の儲けが大きいところさえありました。しかし,決してゼロリスクにはなりません。

 ゼロリスクでなければ受け入れられないと多くの人が考えるものに,財力を超えた投資などがあります。企業は有望なら数十億という多額の投資でも行います。しかし,普通のサラリーマンが数十億の投資をする事はありません。企業でもサラリーマンでも儲かる可能性は同じなのに,なぜでしょうか。それは企業なら万が一の数十億の損失にも耐えられますが,サラリーマンには無理だからです。そもそも,その規模の投資額を銀行が普通のサラリーマンに担保なしに融資するはずがありません。事故資本もないでしょうから,投資しようにもできません。しかし,原発の場合は土地さえあれば投資可能です。

 それでも,世の中には冒険好きな人も存在します。そう言う人は立ち直れないような失敗も覚悟の上なのでしょうか。人の気持ちは分かりませんが,傍目には,失敗のことなど全く考えていないように見えます。取り返しの効く失敗なら,そうなった場合の対策を立てておく気にもなります。しかし,立ち直れないような失敗のことを考えても憂鬱になるだけで何の役にも立ちませんから,考えない方がマシとなるのではないでしょうか。