例え話の限界の説明を例え話で試みる

 例え話は意見の対立する相手の説得には向きません。それどころか正鵠を得て痛烈であればあるほど反発を招きます。前のエントリーでも書いたように例え話は極端な例示の効果で分かり易くするところがミソですが,「全く別の話で的外れ」と言われるのがオチです。例えれば,「ニセ医学批判本」がニセ医学信奉者には通じない様なものです。・・・という例え話も通じない人には通じないか。

 例え話の肝心な所は,例えと当該問題が本質的に同じだと言うことですが,それは感覚的に伝える事になります。理詰めで伝えるのは,落語が何故面白いかを解説するようなもので,落語が面白くなくなるのと同じように,例え話の痛快さも減じてしまいます。・・・という例え話も多分通じないか。

 では,例え話は全く役立たずかというとそうではなく,意見を決めかねているモヤモヤ状態の人の理解の助けにはなります。例えば,数学の問題では一般解の目星を付けるために,極端な具体例を考えることが有ります。これは例え話みたいなもので,例えば(しつこい)有名なモンティ・ホールの問題では,分かりやすくするために3つのドアを100のドアに置き換えたりします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C
 3つのドアの場合は,残っている一つのドアが当たりである確率が1/2であるか2/3であるかモヤモヤする人も,100のドアだと直感的に分かったりします。しかし,1/2であると思い込んでいる人には理解してももらえません。・・・例え話と数学の例示は全く別と考える人にも通じないか。(通じないが2段階のフェーズになっていてややこしい。例え話も懲りすぎるとわかりにくくなるな)

 めげずに続けると,3つのドアも100のドアも本質的に同じであることは,ドアの数をnとした一般式を同じように適用できるからと説明出来ますが,そんなことを説明するまでもなく,感覚的に一瞬で理解する人は理解します。感覚的に一瞬で理解出来る点が例え話のメリットでありますが,同時に弱点でもあります。

 それでも,比較的単純な数学の問題では,3つのドアでも100のドアでも本質は同じ事だと理解してもらえる可能性が高いですが,複雑な問題になると急激に望みは薄くなります。それに例え話は物事のある一面を強調しているだけですから,別の面から見るとまた違った理解の仕方もあります。複雑になれば見える面も増えます。

 例え話への反論には,「荒唐無稽なネッシーSTAP細胞を同じに扱うのはおかしい」というようなものがあります。これは例えれば「3つのドアと100のドアを同じに扱うのはおかしい」というのと同じようなものです。・・・例え話が通じない人は同じようだとは考えないか・・・まあいいや,続けます。ネッシーの例え話の構造は次の様になっています。

STAP細胞は真偽不明に感じるかもしれないけど,ほぼ偽であるネッシーと本質的に同じ共通点をもっているので,STAP細胞も疑わしい。」

 つまり,真偽の点で同じというのは結論であって,前提ではありません。反論はそこを勘違いして前提だと考えている訳です。例え話には,このような勘違いの反論を招くという弱点があります。さらに,例え話では説明されていない重大な事柄があります,本質的に同じ共通点を明らかにするために再調査は必要かということです。例え話では,限りなく嘘っぽいネッシーの調査は無駄だという程度の説明で終わっています。

 では,本質的に同じ共通点とは何かというと,「デタラメな調査報告書や証拠」と「デタラメな論文や証拠」の「デタラメな」という点です。デタラメつまりねつ造をつまびらかにするのに再調査は有効かという事になります。論文や実験試料は残っていますから,それを調べればデタラメであることは再確認出来ます。デタラメさ加減から偶然ではなく意図的なねつ造でしかあり得ないということも分かるかもしれません。こういう事は元の実験記録や論文を調べるのが基本で,再現実験では出来ない事です。過去のねつ造事件では証拠が隠滅される事例が多いですが,STAP細胞事件では残っていますから調べれば分かります。それをしたのは理研の外の人で,理研はデタラメ解明に役立たない再現実験をしようとしています。

 ネッシーが存在するか否かという科学の調査は当面どうでもよいのです。緊急に調べなければいけないのはデタラメな調査の鑑査や捜査です。それが終わっているのなら早く処分の決定をすべきだし,終わっていないのなら鑑査と捜査を急ぐべきで,科学の調査はその後でじっくりとやりゃいいんです。ネッシーの存在に希望があると思う人が自費で。しかし,本人にやらせておけば良い「出来るものならやって見せてみろ」再現実験にSTAP細胞の存在に全く希望をもっていない人までが付き合わされています。お気の毒です。

 再現検証実験が鑑査や捜査としては無意味であることを,限界を承知の上でネッシーの例え話で考えて見ます。再調査でネッシーが発見された途端に,元の落書き程度の調査ノートが詳細なものになったり,目撃者が他にもいたことが分かったり,ネッシーの足跡の写真が使い回しの雪男のものと別物に変化したり,ワニの細胞がネッシーのものに変化したりはしません。元の調査の疑わしさは晴らせません。ちゃんと調査すれば見つけられたかもしれないのに,どうしてまたデタラメな調査をしたのだろという疑問も感じますが,調査費を飲み食いに使ってしまったのかもしれませんし,めんどくさかっただけかも知れません。案外そんなものです。

 逆に再調査でも見つからなかったとしても嫌疑が深まるわけでもありません。元の調査にねつ造が疑われる痕跡がなければ,単なる見間違いかもしれませんし,本当に見つけていたけど再調査で見つけられなかっただけかも知れません。ねつ造と決めつける理由にはなりません。元の調査のデタラメさ加減が増すわけでも有りません。などと言っても,ネッシーSTAP細胞では事情が違うと考える人には通じません。何処が違うのかは分かりませんが。

 科学の実験でもなく,捜査でもないとしたら何でしょうか。例えれば証拠軽視・自白偏重主義警察や検察が行う自白強要の被疑者いじめではないでしょうか。前述の通り「出来るものならやって見せろ。出来ないならいい加減自白したらどうだ」みたいなもんでしょう。いや,これは例えとしても言い過ぎかもしれません。証拠軽視・自白偏重と心理が似ているとだけ言うに止めます。本人が諦めてくれれば,支持する政治家や世間も納得すると見ているんでしょう。これが理研理事長の言う「決着が付く」の意味だと思います。

 私のこのような見方は,理研にかなり甘い方だと思います。世間では,セルシード株云々とスキャンダラスな推測が見受けられますが,私には判断出来る材料がありません。仮にそういう事実があったとしても,核心の研究者が協力しなければ成立しません。上流に事件の源流があるのかも知れませんが,先ずは下流の不正をはっきりさせるべきでしょう。それに上流の捜査は理研ではなくて外部の仕事になります。今は理研の対応について述べています。

 なんというか「出来るものならやって見せてみろ」再現実験って,ワイドショー的です。出来るか出来ないか一般視聴者は興味津々,視聴率を稼げそうです。しかし,大方の専門家は,出来る筈がないとしらけているんじゃないでしょうか。視聴率を気にして研究なんかしてはいけないと思うのですが,視聴率を気にせざるを得ない状況に理研は自らを追い込んだように見えます。いや気にしているのは正確には視聴率ではありません。・・・これが例え話の限界。