堂々巡り

 考え事や議論が堂々巡りに陥ることはよくありますね。それに気づけば思考や議論は一旦打ち切るにしくはありません。ところが,タイムスパンの長い堂々巡りになると,気づかないことがあるので厄介です。

 仕事で社内規定や書籍の改訂作業をすることがあるのですけど,やっとのことで案をまとめたところ,その案は,以前の版に戻っていたということがあります。Aという書籍をBに改訂して,数年後にBをAに戻してしまったのです。右と左に振れることを数年おきに繰り返すわけですよ。担当者が変わって以前の経緯が分からなくなっている場合もありますし,自分で行ったのに記憶が消えていることもあります。

 また,何らかの文書をまとめるとき,前例をひな形にたたき台を作ることもよくあります。前例はそれなりに議論し,合意されたはずのものですから,一から考えるのに比べ手間が省けます。ところがですね,合意されたはずの内容がまたひっくり返されるのです。意見を言う方は以前の議論はほとんど忘れ去れています。こういう時ってイラッとしますね。

 もちろん,以前のひな形の時と条件が違っている場合は変わって当然ですが,そうでない場合も結構ひっくり返されます。多分,その次はまた元に戻ります。なぜこういうことが起こるのでしょうか。私が思うには,別にどちらでも良い場合にこういう堂々巡りが起きやすいように思います。

 どちらでも良いと言われると決めにくいものです。決める合理的理由が欲しくなるんですね。でも決定的理由はありません。延々と議論しても,結局,その時の気分で決める結果になります。暫くたってから,見直すと気分が変わっているので,決定も変えたくなるのでしょう。

 また,たたき台として目の前に差し出されたものはアラが目立つことがあります。そして,もっと良い改善案があるような気がしてきます。その改善案は頭の中で考えている状態なのでアラが目立たないのです。次に,改善案が決定案となって,目の前に差し出されるとまたアラが気になって変えたくなります。この繰り返しです。

 もう一つのパターンは,どっちでも良いと言うわけではないのですが,決める材料が無くて決められない場合です。決められないのに延々と議論をして,この場合も最後は気分で決めることになります。

 例えば,お客さんに提案をするという仕事があります。1対1の関係なら,お客の希望を徹底的に尋ねることができますが,提案の競争を行う場合もあります。この場合,競争の公平性を保つために質問が制限されます。質問の機会を失してしまうと,お客の真意が不明のまま提案書を作るハメになってしまいます。こうなると,提案書の議論は堂々巡り必至です。どうせ,正解は分からないのですから,時間を掛けて議論しても無駄だと思うのですけど,こういう場合ほど時間が掛かります。

 こういう場合の議論は提案の中身よりも,如何に熱意を見せるかという表現の問題になってきます。困ったことに,そう言う美辞麗句ばかりで内容のない提案をお客が高く評価したりするものだから,ますます時間を掛けることになるんですね。お客がそんなものを評価するのは,お客自身も何を求めているのか分かっていないためということもあります。