UNHAPPY個人版

 「HAPPY福島版」を見ていて,思いました。この人たちも四六時中このノリじゃないはずだと。HAPPYな人もUNHAPPYな人も大勢いますが,年から年中,同じ気分ということも無いでしょう。では,平均すればHAPPYですかと聞かれても答えにくいですよね。でも,それを尋ねられることが有ります。

 「あなたの人生は幸せですか」と私が問われれば,どうも自信を持って幸せとは言いにくいです。不満や不安だらけなもので。もちろん,幸福な気分の時間もありますが,比較してみると不幸な気分が勝るような気になるのですよ。そうすると人生全部が不幸な気分になります。

 だから,そんな総括なんかしないで,その時々の状況で不幸は嘆き,幸福は享受したほうが良いような気がするのですが,これって刹那的ですかね。「幸せな人生だった」と臨終のセリフをいうドラマがありますけど,現実にそう言える人は少ないのじゃないでしょうか。なかなか言えないからドラマティックな感動を呼ぶわけで,凡人が望むことではないような気がします。

 別の意味で感動した臨終の言葉はファインマンの「死ぬのは一度きりでたくさんだよ。退屈で仕方がないからね」です。臨終の状況を述べているだけで,人生の総括なんてしていません。そもそも人生の総括(平均化)なんて出来るのでしょうか。偉人が晩節を汚す事もありますし,犯罪人が更正して偉業をなすこともあります。平均すれば偉人か犯罪人かなどという総括をすることも無いでしょう。

 幸福感も同様で,「私,幸せです。」といつもニコニコしている人もいて,自分には出来ないと尊敬しますが,そのテンションを一生維持できるのだろうかとふと疑問になります。一時の高揚感で幸せになっているだけの感がぬぐえないのです。情緒不安定では困りますが,あまりに変化がないのも不自然です。

 世の中厳しいですから,客観的な幸福と不幸を比べたら不幸が多そうな気がします。にもかかわらず「私幸せです」と言えるのは,何らかの精神的修養のたまものではないでしょうか。誰が見たって不幸としか思えない状況で,幸せと言われると感動的ですけど妙な気分になります。自己啓発セミナーや,居酒屋の「喜んで」みたいで。自己暗示で何かを押し殺していないでしょうか。いや,自己暗示でも幸せならいいんですけど。

 いやいや,自己暗示なら不幸せでもいいです。カート・ヴォネガット・Jr.も書いているじゃないですか。「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実態にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない」

 だからこそ,不本意な役柄を期待されるのはごめん被りたいです。悲劇役者が実生活で幸福だと,聴衆は不愉快になって,安定した悲劇を演じる圧力をかけてきますから。