専門家への不信

 「清水義範のイッキによめる!学校よりおもしろい社会」という小学生向けの本を何故か読みました。確かにイッキに読めます。ちなみに挿絵は西原理恵子です。少し長いですが、要旨にあたる部分を引用します。

 もし社会がなかったら、人間は一人一人バラバラに生きていくことになるよね。自分が食べる食料は自分でとって食べなきゃいけない。自分の住む家も自分で作る。子供から大人に育っていくのだって、自分ひとりでやらなきゃいけない。
 そういうふうだと、毎日生きていくのに必死で、ギリギリ生きているだけでいっぱいいっぱいだよね。ちょっと弱い者は死んでしまうかもしれない。
 ところがね、人間は集団で協力することを知った動物なんだ。おれは食料をとるのが得意だ。おまえは家を建てるのがうまい。だからおまえは村の人間の家を建てろ。そうしたら食糧を分けてやる。
 そういうふうに、相談して仕事を分担するわけだよ。このやり方だとね、一人ですべてをやって生きていくのにくらべて、たくさんのことができるんだ。それって、みんなもよく知っていることだろう。一人じゃ何もできないけど、みんなで力を合わせれば大きなことができる、ってやつだよ。
 そういうふうに、みんなで力を合わせることが、社会を作って生きるということなんだ。そして、人間だけは社会を作って生きるおかげで、バラバラに生きるよりは大きな仕事をすることができたんんだよ。
 たとえば、集団で農業をしたりするのもそれだ。お寺や神社のような大きな建物を作る大工事をするためにも、集団が力を合わせる必要がある。商業のためにも、多くの人が力を合わせなければならない。それから、社会には兵隊が必要な時もあって、兵隊の大将からいちばん下っぱの者までが力を合わせなきゃならない。
 集団の運営をどうやればいいんだろうという問題があって、それを考えるのが政治家だ。そういう専門家も出てくる。また、学問のことばかり考えるという学者も出てくる。
そんなふうに役割分担した人間が効率よく働くから、バラバラに生きているより大きな仕事ができるってわけだ。その結果、人間は文明を持てたんだよ。

 ほぼ同じことが「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史 マット・リドレー著」という本に書いてあります。人類は、交換という分業によって文化的進化をとげた、と。分業は専門化を促し、革新を促したと。大人向けなので,イッキに読めるというわけにはいきませんが。

 子供向けの清水義範本では,「みんなで力を合わせる」としか書いて有りませんが,「繁栄」ではもう少し「力を合わせる」とはどういうことか説明してあります。例えば,交換は必ずしも公平ではなく,それでも両者に利益をもたらすということ,一番巧く出来る人が専門家になるのではなく,他の人より下手でも自分が出来ることの中で一番巧いことを専門にすれば良いということ(リカードの比較優位)などです。

 さらに,みんなで力を合わせるようにまっしぐらに進んできたのではないという重要なことが書いて有ります。人間は孤立主義に走りやすい面もあるのですね。確かにそれは実感します。小さな集団に分かれて,よそ者は信用せず排除する傾向も人間にはあるということ。その一方で見知らぬ相手を信用して取引を行うのも人間の特徴で,取引相手の範囲に応じて,豊かさの程度が決まるということ。小さな自給自足の集団は経済的に貧しく,文明というレベルに達することがないだけこと。さらに一旦獲得した文明も交易範囲が狭まれば維持できなくなり,最悪の場合,集団が絶滅してしまうこと。

 見知らぬ相手への不信と信頼の間で人間は揺れ動くわけですが,最近のマスメディアで流れる情報は不信にまつわるものが多いような印象があります。食品偽装に端を発する食品業界への不信,政治家への不信,科学者への不信,農薬を使う農家への不信。その結果,自給自足的農業や,住民参加という直接民主制が持てはやされたりします。様々な分野に関心を持つことと,直接自分で行うことは違うと思うのですが,専門家を否定するような空気を感じます。小学生でも分かることが分かっていない大人がいそうで心配です。次第に日本は小集団に分割され,限界集落化し,消滅するかも。杞憂ですかね。「繁栄」の著者は合理的楽観主義者でそんな心配をしていませんが,それは人類全体の話で,日本という一地域については何も言っていませんからね。