管理されたい人と信頼

次に示すツイートには,「管理されたい願望の強い人」という表現があり,反発があったためか,既に「失言」とご本人が言っています。従って,真意は分からないのですが,ご本人が言うには悪い意味では無いそうです。実は,私も「管理されたい人」は存在すると考えています。ただし,J_Tphotoさんが考えている人とは多分意味が違い,しかも悪い意味です。
http://twilog.org/J_Tphoto

ぶたさんっ!(そう言えば匿名です) ?@J_Tphoto
@kikumaco そうですね。管理されたいと言う願望の強い方は個人計つける必要ないと思います。し、日本ではそう言う方も多い。ただ1ー20バンドで何を大切にするかを考えた時、生活の管理が誰かにされていると言う所から、個人の管理に帰っていくと言う事はすごく大切だと思います

ぶたさんっ!(そう言えば匿名です)@J_Tphoto@kikumaco ポイントは自分で管理なんです。ガラスバッジでは他人が自分を管理している。自分では数字すら見えない。ただつけろと言われて付けている。僕なんか自由人なので社員証とかぶら下げるだけでも苦痛なのに。

■管理されたい人とは?

 J_Tphotoさんが言っているのは,他者に計測値を読んで貰うガラスバッジでは人に管理されていることになる,というような意味です。ご自分ではガラスバッジは管理されているようで苦痛だけれども,別に管理されるのが悪いと言っているわけでは無いとも仰っていて,私には本意が掴めませんでした。ただ,自分で行えればその方が望ましいとお考えのようには見えます。個人の管理は大切だと仰っています。

 ある期間の積算線量だけでなく,随時の線量が分かればその都度,何らかの判断が出来るという主旨のようです。でも随時判断が必要な場面があるんでしょうか。高線量の原発内部で作業するような場合は,連続的測定を行い,危険レベルに達したら即時撤去という判断をする必要があるかも知れません。でも,原発内部で生活する人はいません。それほどの測定が必要だとすれば,そこで暮らすことは出来ないのではないでしょうか。

 また,随時の測定を行わなければ管理出来ないというのであれば,ガラスバッジの測定を他者に任せても管理された事にはなりません。なぜなら,任された他者も積算線量を読むだけで,随時の線量は知らないのですから管理してあげることは出来ません。この場合,誰も管理していないことになります。

 このように考えると,J_Tphotoさんは他者を信頼して作業を依頼することを「管理される」と感じているのでは無いでしょうか。ガラスバッジは自分では測定値を読むことができないから管理されていると感じているわけです。他者を信頼せずに,すべてを自分で行うことが自己管理であるとお考えであるように思えます。私はむしろ他者を信頼しないと自己管理は難しいと考えていますので,それについて以下に述べてみます。

■他者を信頼しないとどうなるか

 そもそも,管理とは他者に作業を依頼する場合に行う判断のことで,全部自分で行うなら取り立てて「管理」という必要はありません。作業を行う人を管理するのが管理者で,自らは作業しないのが普通です。作業者が全く信用出来ないならば,作業を任せることは出来ず,管理も出来ません。管理は信頼の上に成り立っています。

 社会的動物である人間は信頼に基づく分業によって文明を築いてきました。これを否定すると自給自足の原始生活しか出来ず,文明というレベルには達しません。自給自足は極端ですが,他者への信頼が無くなり,確認の手間が増えると極めて非効率になることは経済学でもレモン(不良品)市場の例えで説明されます。

 ところが,高度に分業化,専門家が進むと,自給自足へのあこがれを感じる人も増えるようで,日曜大工,家庭菜園から始まり,本格的に家を造ったり,田舎に引っ込んで農業を始めたりするのが一部で流行っています。とはいえ,これらは高度な分業社会の裏付けのもとで可能な,個人的趣味に過ぎないのではないでしょうか。専門分野で十分稼いで余裕のある人の余技程度のものかと思います。趣味に過ぎなくても,自分で行うことは,自己管理しているような気分になれるのだと思います。

 消費者は自分の食生活の管理を行うのであって,農産物生産の管理をする必要はありません。それはプロの農業者に任せればよいのですが,その信頼が失われているような風潮を感じます。プロが色々と不祥事を起こしているせいもありますが。

■私が考える「管理されたい人」

 私の考える「管理されたい願望」とは他者を信頼する事ではありません。管理には判断を伴います。例えば,線量計の数字を見て,どのような行動をすべきかを判断しなければなりません。その判断を自分で出来ない人が「管理されたい」人です。この様な人は,判断してくれる管理者を信頼しているわけではありません。自分で判断出来ないので仕方無く他人に判断してもらっているだけです。なぜなら,管理者の判断に後から結構苦情を言うからです。

 放射線の測定を自分で行うか,他者に依頼するかは,本質的な部分ではなく,測定結果からどのような判断を下すかが管理のキモです。これは,最終的にそれぞれの個人で行うべきものです。避難するか止まるかは個人の事情によって違って来ますから,国が強制することは出来ません。しかし,現実には国や公的機関が避難指示などの管理を行うことは数多くあります。これは,個人の行動が他者に影響を与える事が有るため,本来個人の自由意志で決めるべき事を例外的に制限していると考えた方が良いと思います。

 法規制は概ねそのような思想に基づいています。自分の家は自由な形にして良いはずなのに,建築基準法で規制されるのは,周囲への影響が有ることが大きな理由です。

 管理されたい人とは,自分の家の形も自分では決められず,建築基準法で定められていないのはけしからんと苦情を言うような人と私は考えます。家の形を決められない人は殆どいませんが,専門的なことが絡んでくると怪しくなってきます。

■判断材料は専門家が提供するが,判断は各人が行う

 例えば,病気の治療法の選択は最終的に患者自身が行います。「先生にお任せします」という人も多いかと思いますが,最近の医師はインフォームドコンセントで,詳細な説明をしたあと,「どうしますか」と訊いてきます。判断材料は専門家が与えてくれますが,この決断は非常に悩ましいです。単純に手術すれば完治し,しなければ死ぬ,というのなら判断に迷うことはありません。しかし,手術の成功率は70%で成功しても,後遺症が残ることがあり,手術しなければ悪化する可能性が非常に高いが,自然に治ることもある,その場合手術の後遺症のようなこともないとなると,簡単には決断できません。

 医師としては,平均的なお勧め案を持ってはいますが,それぞれの患者毎の事情があり,それは患者にしか分かりません。この不確実性は医学の専門的知識とは直接関係有りませんがその判断は非常に悩ましいわけです。そして,不確実性を考えるのが面倒な人は「お任せします」となるわけです。

■管理されたい人は不確実性への耐性がない

 お任せするような人は,専門家に幻想を持っています。自分では不確実な状況での判断が出来ないので専門家にお任せしたはずなのに,専門家は確実な状況で確実な判断をしてくれると感じる様です。でも専門家だって不確実な判断をすることに変わりは有りません。例えば,自然現象は完全には管理できませんが,専門家は確実な予報が出来て当然と考え,天気予報が外れるとクレームを言うのが管理されたい人です。いわば,自分に甘く,他者に厳しい人です。

 不確実性を表現する確率を誤解している人が多い事はしばしば言及されます。手術の成功確率が70%とは,100人のうち70人は成功し,30人は失敗するという意味ですが,7割方回復すると思ってしまう人が多いようです。興味があるのは自分の健康であって,他の99人のことを言われても,自分には関係無いとしか感じないわけです。

 最終的な判断は,手術をするかしないかという明確なものになりますから,お任せしてその結果だけ受け取ると,ブラックボックスの中も確実なものであるかのように思えてしまうのかも知れません。そのあたりは想像力の問題かと思います。 

 
■管理されたい人の信頼は危うい

 管理されたい人は,不確実性への耐性がないため極端から極端に振れる傾向が有るのじゃないでしょうか。単純に信頼出来るか,出来ないかの分類しかなく,概ね信頼出来るという分類が有りません。概ね信頼出来る人の発言からどのように判断してよいか分からないからです。信頼出来る人に疑いが生じると,一気に信頼出来ない人と見なされがちです。信頼出来る専門家の判断は確実なものという幻想があると,裏目にでた専門家の判断に失望し,不信感が強くなるようです。専門的でブラックボックス化していることも疑心暗鬼になる要因かもしれません。

 不信感が高じると,判断までお任せしていたのが一転して,専門的な判断材料の収集まで自ら行わないと気が済まなくなります。自給自足体制になってしまうわけです。そうはいっても,不確実で分かりにくい専門分野を理解し自ら行う事は,管理されたい人には簡単にはできません。

 それを簡単にできそうに思わしてくれる人がいます。歯切れの悪いことは言わず,分かりやすく明確な説明をする自称専門家がいます。彼らの説明によれば,自己管理も簡単です。なぜなら,単純で分かりやすい情報しかありませんから,殆ど自分で判断する要素が有りません。「安全だから良し」,「危険だから駄目」というだけの単純明瞭なものです。つまり,「自己管理」と言っても自分では何も管理しておらず,自称専門家の分かりやすい情報に管理されているだけなのですが。

■実証が困難

 自称専門家もいずれ化けの皮がはがれ,信頼を失いそうなものですが,事はそう簡単ではありません。危険なものを安全と偽れば,被害が起きて間違いは明らかになります。しかし,安全なのに危険と偽るのは問題が表面化しにくくなります。安全側に用心するに越したことはなく,被害が生じないから良いではないかと考える人もいますが,実は被害は生じていても見えにくいだけなのです。用心しすぎることで,別の面が犠牲になります。ただ,その犠牲は元の問題との関連性が見えにくく意識されにくい面があります。そのため,自称専門家は長い間,信頼をつなぎ止められるのです。ある程度の期間,信頼を得られれば,信者の新陳代謝で永続的に存続できます。詐欺やインチキが世の中に絶えないのはそのためです。

■自己管理しているつもり

 管理には不確実性を如何に判断するかという高度な判断が必要だと私は思います。だから管理者は一般的に高い報酬をもらっています。ところが,そのような判断はあやふやだとして,明確なマニュアルに従った管理を求めるニーズは結構強いです。そのニーズは確かに一理あります。明確に出来ることはマニュアル化すべきです。ファーストフード店の接客マニュアルなどはその類です。ただ,それに従う店員は管理しているのではなく,管理されているのは明らかです。

 マニュアルが頭の中に入って読まなくても済むようになると,自己管理しているような気になります。営業上の接客のような複雑なことになると,多分マニュアルを覚えているだけでは巧く行かないでしょう。不確実な判断が必要な筈です。いや,ファーストフード店の接客でも必要な筈です。それが出来て自己管理と言えるわけですが,お客がマニュアル接客に違和感を感じるのは自己管理が出来ていないからではないでしょうか。