美術館公認政治活動

東京都美術館から政治性をおびているとして作品が撤去された背景について- 法華狼の日記
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20140226/1393429874

■なんだか面白くない
 美術館がクレームに萎縮しているという指摘は正論なのだけど,なんだか面白くないなという気持ちはぬぐえません。なんというか「学問の自由は保障されるべきだ。自由な卒論テーマを認めよ」と専門とは関係無いテーマを選んでいる卒論生を見ているような印象なのですよ。まあ,自由ですけど学問と卒論生にとってどんな意味があるのかなと思ってしまいます。同様に,公立の美術館で自由に政治活動できることって,政治と芸術の両方にとってどれ程の意味があるのでしょうか。以下は,「気持ち」の自己分析です。ことの是非を論じているのではありません。何か勘違いがあるのかもしれません。

■公務員と公共施設に科せられた制限
 昔,役所の建物に行くと,廊下や事務室に職員組合のポスターやビラがべたべた貼ってあるところがありました。多分正当な行為だったと思います。(掲示板以外に貼ってあるのは怪しいけど)。ただ,職員の健康福祉のためのレクリエーションのお知らせという類のものもあれば,政治色が非常に強いものもあります。この情報から分かるのは,この役所における当局と組合の力関係です。それだけなのですよ。レクリエーション情報以外の政治的なものは,大体知っていることなのです。政治闘争とは,主張の是非というよりも勢力の誇示の面が大きいですから,そう言う意味があるのでしょう。

 一方で公務員は政治的に中立が求められますし,行事や情報発信でも中立が求められます。公共工事で特定の宗教の地鎮祭は行わないなどというどうでもよいような事まで気にしています。組合という建前がなければ,庁舎内の掲示に特定の政党のポスターを貼ったり出来ません。

 中立といっても,時の政権の政策という意味です。行政が政治的に無色透明と言うことは有り得ず,政権の意向に従うのが民主主義の原則です。政権以外の野党の政治的主張がNGなだけです。もちろん,与党の主張がそのまま良いというのではなく,議会を通過して政策として成立していなければなりませんが。

 このように,国民には思想信条とその表現の自由があるのですが,公務員と官庁は制限されているのです。でも何故でしょうか。公務員だって,私的な思想信条を表現してもよいのではないでしょうか。公務員の私的な思想と議会で承認された政策とが混同されない表現だったらよいのではないでしょうか。庁舎内の掲示も,野党は当然のこと過激派の主張だってして良いのではないでしょうか。表現の自由があるんですから。別に公認の政策だと誤解されなければ。

 でも,こういう考え方を机上の空論と言います。現実には過激派の公報掲示なんて有り得ません。絶対にクレームが来ます。庁舎管理者が腹を決めて許可することはありません。大多数の人は,公共空間でそのような主張を目にしたくないのです。表現の自由はありますが,無理矢理見せられない自由もあると考えています。私的空間,あるいは望む人だけが行く空間ではほぼ完全な自由がありますが,公共空間では制限されます。公共空間は不特定多数がそこを利用せざるを得ない面があります。そこに特定の表現があると,強制的に見たくもないポスターや聞きたくもない音楽を押しつけられた様に感じるのだと思います。

 以前に,ホテルが日教組関係者の宿泊を拒否したことがありました。日教組の集会に反対する右翼の抗議に萎縮したためです。このような宿泊拒否や乗車拒否は不当な行為です。これと,公共施設の使用拒否は同じように見えます。しかし,民間の画廊やホールは使用目的によって拒否出来ます。なにが同じで何が違うのでしょうか。おそらく,宿泊や交通機関は基本的な生活手段であり,拒否されると生活上大きな支障があるからではないでしょうか。食品の販売拒否も不可でしょう。他方,高級品や生活必需品でないものは販売に条件が付くこともあります。また,業務活動,芸術活動,政治活動等の場所の提供も両者の合意に基づくもので,供給側に一方的な提供の義務はないと思います。

 ここまで述べた事をまとめると,不特定多数が訪れる公共空間では,生活必需の基本的サービスでなければ,表現の制限があるということです。ホールを貸し切り,政治集会を催す様な場合なら,その目的のための人しか訪れませんので可です。自由に業態を拡大できる民間と違い,行政は行えることが限定されています。越権行為,権力の暴走という批判をかわすため,行政は慎重です。積極的に思想統制を行うという意図からではなく,苦情を避けたいという消極的動機から使用制限します。ところが制限にも苦情が出ます。バランスなのだろと思います。

政治活動家と芸術家の戦略
 行政側の思惑は以上のようなものですが,芸術家や政治活動家が行儀良く,その意向に従う筋合いありません。行政の措置は違憲であるという訴えも,組合のビラを貼りまくることも必要でしょう。要するに闘いです。組合のビラは当局の行動を押さえるための恣意行動であり,別に一般大衆にアピールしているのではありません。そもそもシンパでない一般大衆は,どちらかというと眉をひそめます。

 では,美術館の中での政治的表現にどんな意味があるのでしょうか。特に,美術館に公認された政治的表現の社会的影響力はどの程度なのでしょうか。思うに,公職選挙法の規定に従った立候補ポスター程度の影響力ではないかと。観客に「ああ,この作家はこんな考えなのね」とお知らせする程度です。美術館は,少数の美術愛好家しか訪れない空間です。ネット上などの情報発信に比べれば,量的には圧倒的に貧弱です。おまけに,平凡な表現なら,その少数の観客の印象にも残りません。それでも,優れた芸術的表現ならば,少なくとも見た人にはそれなりのインパクトを与えられます。

 ただ,優れた芸術表現だけでは,美術館の枠を超えることは出来ません。優れた芸術表現の政治主張はマスメディアに載せなければなりません。私は,政治的主張と芸術的表現は直接的な関係は全く無いと思っています。それらは,単に並列してあるだけなのです。ですが,直接それを目撃した人の脳裏にはインパクトの強い芸術表現と関連づけられて政治的主張が記憶されます。しかし,目撃者の話を聞いただけの人には,伝わりません。又聞きの人にも強い影響を与えるには,造形的表現ではなく,言葉で伝えられる話題性,物語性が必要です。美術館の裏をかくようなゲリラ的作戦とかヒネリのようなものです。それがあれば報道の興味を引くことも出来ます。優れた芸術性だけなら,日曜版の教養欄に取り上げられるのが関の山でしょう。

■で,その効果は?
 今回の作品が,意図的に美術館の撤去措置を誘発し,報道されることを狙っていたとすれば,ゲリラ的作戦とも言えます。ただ,目的を果たしたのでしょうか。単に話題になっただけで,肝心の政治的主張や芸術性が注目されたのですかね。全く誰も知らなかったような隠された問題を暴露するようなものなら,大成功だと思いますけどね。しかし,首相靖国参拝は誰でも知っています。

 私は大した事ではないと思いますが,美術館の萎縮した運営を世間に知らしめたことを評価する向きもあるかも知れません。そして,仮に,美術館での政治的表現の自由を勝ち取ったとします。そうすると、それ以降は展示の報道もされません。狭い美術館の中に止まったままになります。一体何を勝ち取ったのかよく分かりません。政治的にはともかく,芸術家の立場としては,それでよいのかも知れません。日曜画家も安心して政治活動家の物まねが出来るという程度には。でも、日曜画家の絵は趣味ですから、面白いものは殆どありません。