芸(術)がない

靖国参拝批判の作品、撤去要求 東京都美術館
2014年2月19日07時50分
http://www.asahi.com/articles/ASG2L5HHSG2LUTIL033.html

 東京都美術館台東区)で開催中の現代日本彫刻作家展で、安倍政権の靖国参拝などを批判した作品の撤去を同館が求めていた。主催者は「表現の自由を侵害する」と反発したが、同館は「政治的な宣伝という苦情が出かねない」とし、協議の末に作品の一部が削除された。
 作家展は15〜21日、約60点を展示。同館が指摘したのは、主催した現代日本彫刻作家連盟の中垣克久代表の「時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA円墳―」。高さ1・5メートルのドーム状の形で、作品として「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう」と手書きの紙を貼っていた。
 館の運営要綱では、「政治活動をするためのものと認められるとき」は、施設使用を認めないと定めている。同館は16日、中垣さんに撤去を求め、「折り合いがつかなければ、展示会の中止や来年度以降の施設使用の見直しも検討せざるをえなくなる」と伝えた。
 協議の末、手書きの紙を削除した中垣さんは「作家として思いを表現した。言論規制につながる怖さ
を感じる」と話す。同館は都が都歴史文化財団に運営を委託しており、財団の担当学芸員は「『靖国神社参拝の愚』と『現政権の右傾化を阻止』が政治活動にあたる恐れがあると判断した」と説明する。
 都文化施設担当課の高橋伸子課長は「都主催の事業でないので関知しない」とした。(中村真理


(1)マクラ 施設管理上の判断

■都文化施設担当課の変なコメント
 都文化施設課のコメントは一見して変です。撤去措置は,館の運営要綱に基づく美術館の判断です。主催者の現代日本彫刻家連盟じゃないですよね。「運営要領も撤去判断も当課は関知しない。館に聞いてくれ」が正答でしょう。
 ボールを誰かに投げたい一心で,質問の意味も考えず,QA集のひな形を機械的に使ってしまった感があります。

■ネット上の的外れなコメント
 ネット上では,芸術と政治性は切り離せない,という意見が見られますね。でも関係ありません。運営要綱では,政治性があっても問題ないです。リアルタイムで「政治活動をするためのもの」が駄目なだけです。政治性のあるゲルニカの展示もOKです。今更,ナチスへの抗議の政治活動をしているとは誰も思わないでしょうから。芸術と政治性が切り離せない事ぐらい専門家の館は判っているんじゃないかな。入館者が個人的に政治的メッセージを観賞しても,困りませんが,政治集会でも始められては施設管理上,館は大迷惑です。

■「館内では飲食はご遠慮下さい」
 また,運営要綱は芸術でなければ駄目とも言っていません。それを言ってしまうと,泥沼の芸術論争にはまり込んでしまいますからね。何でもありの現代芸術では,「これも芸術だ」という芸術家もいれば,「そんなガラクタは芸術ではない」という芸術ファンもいます。館は一般常識として観客の安全上支障のあるもの,苦情が出そうなものを禁止したいだけでしょう。靖国参拝は今が旬の政治問題ですから,苦情は十分予想できます。結論の出ない芸術論争や政治論争に巻き込まれるのが嫌なんですよ。別に思想検閲という程のものではありません。そういう事なかれ主義が良いとは言いませんが,運営要綱はそうなっています。従って,抗議するなら運営要綱が違憲であるというべきでしょう。ただ,それだと単なる政治活動家になってしまいます。何か芸術家のやり方とは違うなあという気がするのですよ。

(2)本題 芸術家のやり方

■当局公認の革命
 本題に入ります。美術館での政治活動を認めよと言う意見には,革命を認めよと当局に要求しているような奇妙さを感じます。当局公認革命・・・安全保証冒険というか,泥棒に倫理を求めているというか,山中で出くわした熊に人命尊重を説くというか。かつての現代芸術では,美術館と丁々発止のやり取りをしていました。政治性だけでなく,衛生上,安全上,治安上問題になりそうな芸術作品が結構ありました。観客も巻き込まれかねない危険がありました。最近の事情は知りませんが,昔の現代芸術家(変な言葉)は概ね反体制(のつもり)で,伝統的なタブローや美術館という体制に反発して新しい表現や発信の場を開拓していました。それとともに既存の美術館の想定外の利用方法も試しており,当然ながら美術館の管理者と衝突しました。

■美術館の否定
 その際,芸術家側は「美術館はこうあるべきだ」などとは主張しませんでした。そもそも,美術館を潰そうとすら考えていたフシがあり,結局,美術館を飛び出し,ハプニング(今で言うパフォーマンス)などの意味不明の行動に走り,大衆から遊離して空中分解してしまいました。今では温和しく,美術館や商品の中で現代芸術をしています。今時,ラジカルは流行りません。デュシャンまで行っちゃったら,やることは無くなります。デュシャン自身止めてしまいましたから。

■政治性と芸術性の独立性
 個人的には,芸術に政治性など全く感じません。政治性というとピカソゲルニカですが,あの絵だけ見ても,政治的な意図は私には皆目判りません。いろいろと背景の知識を知れば,「ああ成る程ね」とは思いますが,それはきれいな絵や気持ち悪い絵を見たときのような感覚ではなく,理屈の理解です。

■感覚と説明
 私は造形から感じる感覚が大好きですが,実物抜きで説明されても感じる事は出来ません。赤い色を見れば強烈な印象を受けますが,「鮮烈な赤」と説明されてもその印象は再現出来ません。にもかかわらず,芸術には説明に走ったと思われる様なものもあります。よく言われるのが晩年のキリコの絵で,以前の自分自身の絵の説明にすぎなくなっています。かつての独特の雰囲気が全く感じらなくなってしまいました。様式化して「感覚」成分が蒸発した干物になっちゃった。

■政治性は説明
 政治性のある芸術にも,この種の説明図でしかないものがあります。それらは,政治的メッセージを説明的に発信していても,「感覚」に訴えるものがありません。優れた「感覚」訴求性も併せ持つ政治性のある芸術もありますが,両者は独立しています。さもなければ,政治活動を終えれば芸術としての価値も消えることになります。

■感覚の純粋抽出
 かつての前衛芸術は,この「感覚」を誘発するものを蒸留抽出しようと挑戦していました。その結果,抽象画,コンセプチュアルアート,ミニマムアートなどに発展(?)していきました。でも,料理のうまみ成分を抽出したエキスが美味しいかというと必ずしもそうではないように,大抵は無味乾燥なものになってしまいます。その代わりに意味不明の御託ややたら長いタイトルが付いてきたりします。そう言うのが良いと言う人もいますが,私には裸の王様に見えます。

クオリア
 それでも,巧く抽出出来た場合もあり,奇妙な「感覚」が濃縮されたけったいな芸術というものはあります。こういうものは単純に面白いです。何が面白いのか判らないという人も多いですが,多分,余計な「説明」に感覚が鈍らされているだけだと思います。落語が面白いのと同じような感じでです。「えーと,どこが面白いか説明すると・・・」は先代林家三平の口上でした。「感覚」も脳科学か何かで説明出来ると思いますが,感じるのとは違います。「説明」にも面白いという「感覚」を感じることがありますが,造形とは別種の文学的「感覚」です。いろいろと複雑ですが,「感覚」そのものは単純です。そう言うのが好きという人は変わり者(近頃はオタク)と言われるようですが。

■非公認ふなっしーの芸と,公認を求める無芸キャラ
 美術館には,過去の評価の定まった遺品を安置する墓場,もとい博物館のようなところがあります。だから,歴史になってしまえば宗教も政治も安全でOKなのです。そう言う場所で,生きた政治的メッセージを発信するのは,場違いです。別に墓場,もとい博物館,もとい美術館で政治メッセージ発信を制限されても大した支障はないと思います。しかし,現代芸術は「何でもアリ」ですから,お構いなしです。あえて,場違いを利用して芸術性を浮かび上がらせることを意図した場合もあります。過去にはそう言う取組が数多くありました。場違いの場所は美術館だけではなく,路上,電車内,自然,宇宙にすら広がりました。当然ながら,それぞれの場所の管理者とトラブルになります。そのトラブルへの落語的対応も含めたすべてを芸術と称していました。

 例えば,「東京ミキサー計画 ハイレッドセンター直接行動の記録 (赤瀬川源平著 PARCO出版)」には,そんなトラブルの場面があります。著者らが広場で芸術でないフリをして芸術をしているところです。

 ところがここはただの広場じゃなくて,広場というよりはシマであります。シマにはシマをとりしきっているソシキがあります。そのソシキの人が出てきました。
「あんたら,エイガの人?」
と優しく質問します。私たちはその優しさにブルルンとしました。その優しさの中に,ソシキの刃物のような力がじんわりとしみこんでいるのです。黙っているわけにはいきません。
「え・・・・・あ・・・・・」
答えようとするけど,やはり口ごもります。ソシキの人は映画のロケか何かとかん違いしているのでしょう。映画だったら,お前さん,このシマで商売するには,あのねェ・・・・,とか何とか言うつもりだったのでしょうが,
「エカキです」
と主催者の誰かが答えました。
「ガカです」
とまた一人が答えました。でもこの場合ガカは余分だと思う。
「え?ああ,エカキかあ・・・・」
とソシキの人は言いました。その言葉にはもう例の刃物のような優しさはなくなっていました。拍子抜けした様子です。何だ,クズだな,という感じです。エカキじゃ金になんねェな,そんな感じもにじみ出ています。
「あのな,ここは馬券売ったり,いろいろ仕事の場所だからな,そういうことはどっかよそでやりな」
と言われました。私たちはそりゃまあ仕方ないと思いました。この場合は「芸術じゃない」と言ってもダメだし「芸術だ」と言っても通用しない。でもまあテストもいちおうやったことだし,私たちは「はい」とか「どーも」とか,何かそんなような発音をして終わることにしました。

 情けないけど,引きつった笑いがありますね。芸術だの反芸術だの言ったって,そんなこと意に介しない世界もあるわけですよ。それに比べ,「作家として思いを表現した。言論規制につながる怖さを感じる」は堂々としてご立派。でも,全然面白くない。

■馬鹿馬鹿しさと狂気が欲しい
 論理的ではない文章ですが,テーマがテーマだから大目に見て下さい。一応,理屈も言えば,「言論規制」と抗議したのなら,「政治活動」と認めたことになります。ならば,運営要領が違憲だという闘いまでして欲しかったですね。アジビラをはがして納めるなんて尻切れトンボですよ。あるいは「芸術であり,政治活動していない」ととぼけて言い張るかです。どちらも面白いけど,後者の方が勝るかな。

 勝手な希望だけど,芸術と言うのだったら,芸が欲しいのであります。