科学者が探検者なら,哲学者は観光旅行者

 確率の哲学的解釈というものがあるのですが,これがどうもピンと来ません。多分,浅学非才な私の理解不足なのでしょう。有名な哲学者が提唱し,それなりに世の中に流布している解釈なのですから,私の疑問など誰かが既に言っていて,解消されている可能性が高いと思います。それでも,疑問だけでも述べてみます。というのも,「哲学的解釈」がどうであろうと,実際上は何も変わらないので,どうでもよい「解釈」が,生き残っているという可能性が全く無いとは言えないからです。


■1回限りの出来事の確率
 確率を扱っていて,大抵の人が違和感を感じるのは,1回限りの出来事に適用出来るのかという疑問の様です。例えば,天気予報は明日の天気を知りたいから利用しますが,降水確率30%というのは,過去の同じような気象状況100回のうち30回雨が降ったという意味に過ぎません。これと,たった1回しかない明日の天気にどのような関係があるのだ,と感じる人は結構います。明日以降100日間のうち30日に雨が降るだろうというのなら分かるけれど,明日は雨が降るか降らないかのどちらかしかないのに,30%とはどういう意味なのだというわけです。中には,24時間のうちの7時間強の時間,雨が降るように感じる人もいるようです。

 この違和感は感覚的には一応私も感じます。確率とは,大数の法則に基づき,多数回の試行を行えば,その値に近づくという極限値でしかありません。サイコロの1の目が出る確率が1/6であるという意味は,6万回振れば,およそ1万回は1が出るだろうと言っているだけです。1回振った結果については何も言っていませんからね。このような考え方を哲学的解釈では「頻度解釈」と言い,強硬な「頻度主義者」は1回だけの出来事に確率を適用することは出来ないと言うそうです。

 この違和感を解消するのが「傾向性解釈」らしいです。これは,全く振ったことのないサイコロでも,形が対称であれば,どの目の出る確率も同じと考えるようなことです。試行した結果の頻度から確率を出すのではなく,「サイコロ振り」という機構に目の出やすさの傾向が備わっていると考える訳ですね。確率が同じと考える根拠は「無差別の原理」などが使われます。どの面にも機構的な違いはないから確率が違うと考える理由がないとするわけです。

■「頻度解釈」は,解釈ではない
 では,最初の疑問です。「傾向性解釈」は確かに解釈ですが,「頻度解釈」の方は解釈ではなくて,確率の定義みたいなものじゃないのかと。大数の法則が保証しているのは,多数回行った場合の頻度でしかなく,1回だけの結果に付いては言及していません。「頻度解釈」は大数の法則で保証されている「多数回頻度の割合を確率として計算する」という手続き的定義を述べているだけで,解釈の要素は無いのではないかと言うことです。なお,確率が1回だけの出来事に「適用」出来ないのは定義からして当たり前ではないかとも思います。

■言葉使いの混乱
 ここから核心の疑問に繋がります。微妙なことですが,哲学的問題には「言葉使いの間違い」が付きものです。「適用」という言葉は意味が曖昧です。私は,「適用」出来ないと言いましたが,その意味は「1回サイコロを振った結果は,6万回振ったうち1万回1が出ることと同じではない。」という馬鹿みたいなことです。1回振ることと,6万回振ることは違いますからね。しかし,6万回振った結果を,1回振る結果の推定の根拠に使うことは,別に構わないと思います。その判断は必ずしも同じになるとは限りませんけどね。1回限りの賭けでも「10回のうち6回は当たりだから勝負だ」と決断するのが間違いとは言えないでしょうし,「この勝負で負けたら後がないから降りよう」と判断しても間違いとは言えません。

 「推定の根拠に使う」ことも「適用」というのなら,確率は1回だけの出来事にも適用出来ると私は思います。哲学的解釈では,「適用」の二つの意味を混同し,勘違いしているような気がします。多数回試行と1回だけの行為は違うのですから,前者を判断材料にして後者を推定した結果が定まらないのは当然です。しかし,選択の範囲を狭める程度のことは出来るわけです。所詮不確実な話ですから,不安もあります。それが違和感として感じられても不思議はありません。


■「傾向性解釈」で違和感はなくならない
 以降はおまけです。
 「傾向性解釈」によると,一回限りの出来事の確率の違和感が無くなるかと言うと,私の場合は,無くなりません。「傾向性解釈」には解釈というどうでも良いようなものが付着していますが,具体的確率の意味は「頻度解釈」と変わっていません。

 機構の奥底に「傾向性」という神秘的なものが潜んでいようがいまいが,傾向性解釈における「1の目が出る確率は1/6」の意味は,そのサイコロを6万回振れば,1万回1の目が出るだろう,ということで頻度解釈となんら変わりません。傾向性解釈だと,1回だけの目の出る確率を頻度解釈以上に教えてくれるというわけでもありません。心で思っていることが違っても,表に出る行動は同じようなものです。まさか,次の目は期待値である3.5が出るというのが傾向性解釈の意味であるなんてことはないのですからね。

 違和感が減ったように感じるのは,まさかの期待値である3.5が出るような雰囲気を感じるからとしか言えません。もちろん,そんなことを言う人はいませんが,「サイコロと言う機構の性質として」という解釈からなんとなく,確定的な「感じ」を受けるだけじゃないのと思うのです。アウトプットとしてのサイコロが振られた結果の状態については,不確実性が減って確定的になるなんてことは一切ありません。ですが,サイコロという機構の中になにやら確定的な性質があると言われると,そのことと,アウトプットの結果の区別が曖昧になってごまかされているだけじゃないでしょうか。

 変な例えですが,サイコロに心があり,傾向性サイコロ君は「必ず確率に従い,どの目の確率も同じになるように振る舞おう」と固く決心しているとします。もう一人の頻度サイコロ君は何も考えていません。適当に振る舞っているだけです。1回だけサイコロ投げを行う場合,両君の振る舞いには何も違いは有りません。でも,何となく傾向性サイコロ君の振る舞いの方が,「確率通りに」とか「確率に従って」という印象を受けますね。気分的なものに過ぎませんが,そんなものだと思います。

 私は,「頻度解釈」は解釈ではなく,定義みたいなものと言いました。確率はサイコロを振った結果について言及しているだけで,出目を生み出す機構は何でも良いのです。サイコロでも,六角形の鉛筆でも,パソコンのソフトでも構いません。その機構に付いては「頻度解釈」の場合でも,「傾向性解釈」の解釈をしても一向に構わないのではないでしょうか。所詮解釈ですから,どんな解釈をしたって自由です。ですから,「頻度解釈」だろうと「傾向性解釈」だろうと,1回だけの出来事の確率の違和感は気分以上の違いはないのです。

■確率算定の道筋という技術的な違いだけ
 では,違いがどこにあるかというと,確率を算定する道筋です。例えば,傾向性解釈では試行の頻度を使わずに,サイコロに歪みがないという「機構の性質」から確率はどの面も1/6と判断します。別に「頻度解釈」だって,サイコロの機構に何らかの傾向性があると心の中で思っていても構いません。ただ,実際に確率を計算する場合には,サイコロを実際に振って確かめるのであって,その機構とやらを思弁的に推測しないというだけです。「傾向性解釈」ではそれをするという違いが有るだけです。

 また,機構の推測に当たっては,「無差別の原理」などが使われます。確率が違うという理由がないなら同様に確からしいと見なす考え方です。ですが,この考え方自体が,過去の経験に基づいているわけです。過去の歪みのないサイコロはどの目の出る確率は同じだった。だから,このサイコロもそうではないか,と考えているだけではないでしょうか。頻度解釈では,過去の実績を手続き(実験計画)に従って算出するのに対して,傾向性解釈では,大ざっぱな勘のようなもので算出しているという精度の違いだけの話ではないでしょうか。

 アリアンロケットを製造しているダイムラー・ベンツ。エアロスペース(DASA)では,安全性をロケットの部品の信頼性などから,割り出し,99.6%だとしているそうです。(「危険な生活」より)ところが,事故の回数を数えると,8件も起きており,99.6%とは大きく違います。その理由をDASAは「過去の事故は人為ミスが主な原因であるが,99.6%はロケットというハードの安全性」と説明したそうです。99.6%は傾向性解釈で,事故回数から算出したものが頻度解釈であるとこの本では説明しています。

 しかし,本来ならば,傾向性解釈の機構にも人間も含めなければいけませんよね。それに,部品の信頼性は実績などからつまり不具合頻度などから出しているはずです。頻度のデータは傾向性解釈にも必ずあります。途中から,それを元に計算したり,勘で修正して最終的な確率を割り出すわけです。頻度解釈では,最終的な確率を頻度から直接算出しているという違いがあるだけです。計算にはモデル化が必要で,現実との誤差が必ずありますし,勘は言うまでもなく大きな誤差があります。このような技術的問題で,頻度解釈と傾向性解釈の確率は一般に違ってきますが,理想的な計算や勘があるのなら,一致する筈ですよね。だって,理想的な計算や勘でもって計算した確率は正しいのですから,実際に多数回振って見れば,その確率通りになります。そして,実際に多数回振って見た結果というのは「頻度解釈」なのですから。なんだか馬鹿みたいな話ですが。

■解釈は自由だけど,副作用もある
 哲学の役割は,思弁のあまり陥った人間の勘違いを見つけることではないかと思います。1回だけの出来事に確率を適用することへの疑問は,この種の勘違いではないかと私は思います。ところが,勘違いを明らかにしたのではなく,「傾向性解釈」という更に誤解を招きかねないものをひねり出したのではないでしょうか。「傾向性解釈」は解釈ですから,間違いだと言うことは出来ません。解釈は自由に出来るのですから。人によっては,確率への違和感を解消する精神安定剤みたいな効果はあるかもしれません。ただ,不確実を取り扱う確率に確実性があるかのような誤解を招く副作用があるのじゃないでしょうか。