自分自身に関する「秘密保護法」

 「「化学物質過敏症って心因症なの?」に対するお返事」
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/00131123#c
のanan1477さんコメントを読むと、病気が良くなるか、安心感は得られればよいのであって、議論をしたいのではないということがよくわかります。とにかく患者の気持ちを乱すようなことは言って欲しくないわけで、それが科学的に正しいかどうかはあまり重要ではないということだと思います。

 例えば、ダブルブラインドテスト化学物質過敏症には適切ではないと思うが、ダブルブラインドテストがどういうものかはよく知らないと、議論としてみればめちゃくちゃなことをおっしゃいます。でも、議論をしたいわけじゃないのですね。「自分の病気に対する世間の無理解で随分苦しんでこられたわけです。そこへ、「化学物質過敏症」との診断で助けられたと感じられたのだと思います。ところが、ダブルブラインドテストが「化学物質過敏症」を否定するとなると、心穏やかではいられないでしょう。それがどんなものか知らないし、何故化学物質過敏症に適切ではないか説明できないけれど、患者の心を乱すものであることは確かなのだから、そういうことを言ってくれるなということではないかと思います。

 その気持ちはよく分かるし、ストレートに感情の問題だと言えば良いと思うのですが、部外者だから言ってはいけないというこじつけをされるので、読んでいて辛くなるところがあります。世間の誤解、無知に苦しめられので、間違った情報を流してはいけないというのなら分かるのですが、聞きたくない情報は流してくれるなとなってしまっているのではないでしょうか。確かに聞きたくない情報を聞くのは辛いですけど、聞かないと危険な場合もありますからね。

 化学物質過敏症に限らす、患者と医師の間の情報伝達に関わる感情面な難しさは昔からあって、パターナリズム医療を期待する患者は現代でも存在します。

「数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活」(ゲルト・ギーゲンレンツァー)という本に、患者の期待とそれに答えようとする医師に関する記述があります。それが、大きな危険を招くというのがこの本の主旨ですが、医師側の発言をいくつか引用します。

・医師会や健康保健会社の集まる会合での議論

B医師 インフォームドコンセントという議論はーメリットとかコストとかーずれていると思いますね。医師と患者の話し合いは儀式ですよ。この儀式の中には、偽陽性が入り込む余地はないんです。

医師会会長 患者は安心したがっているんです。不安から解放され、正しい手に委ねられていると思いたい。たとえ状態が前より良くならなくても。自分の苦しみに貼るレッテルが欲しいのです。患者の不安を取り除いてやる医師は良い医師です。何かをしてやらなければなりませんからね。何もしないということはできない。患者は失望し、さらには怒り出しますよ。ほとんどの処方には、科学的に立証されている効果などないが、軟膏を出せば医師も患者も製薬会社もハッピーってわけです。
(中略)

医師会会長 医師が患者に「要治療数(NNT)」を持ち出して説明すれば、プラシーボ効果は消えます。結局、一人の患者に治療効果を上げるためには、何人の患者に治療を施す必要があるかという「要治療数」とは、一人が救われるために何人が苦しまなければいけないか、ということですからね。患者は直してもらうために医師のもとへやってくるのであって、一人が救われるために何人が傷つけられなければならないかを教えてもらいに来るわけじゃない。

・すべて(の努め)を穏やかに、巧みに遂行し、患者を治療するに際してはほとんどの事項を隠しておきなさい。明るく穏やかに必要な命令を与え、患者の関心を治療からそらしなさい。ときには厳しく熱を込めて叱ることも、こまやかな心遣いを示すことも必要だか、患者の未来や現在の状況については何も教えてはいけない。ーヒポクラテス

素敵に騙してという気持ちは分からないでもないし、難しい問題だと思いますが、そこには大きな危険が潜んでいると思います。

■追記12/9

 その後(12/7以降)のanan1477さんのコメントを見ても,情報発信を規制するような意見が多いのが気になります。悪用の可能性や部分的な情報の強調での誤解など,杞憂としか思えない理由を述べておられますが,これはすべての言論規制に繋がります。

 そもそも,意見表明は部分的に強調したいことがあるから行うのであって,反対意見も含めてバランス良く述べることは不可能です。というか,すべての発言者が自由に発言出来るからこそ,全体でバランスがとれるのだと思います。偏っているといって一部の意見を規制することは,かえってそれ以外の意見に偏ることになります。

 規制当局がもっともらしい理由(わいせつなど)を付けて表現の自由を規制するのも同じです。発端の動機は正しくても手段を間違うと非常に危ないことになります。あるいは,被差別者に対するアファーマティブアクションの度が過ぎて,タブーとなってしまい差別が変な形で固定化されるのにも似ています。

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パターナリズム、配慮、そしてタブー」
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20130804/1375623649