趣味と産業

 次のブログを読んで思ったことです。

 バッタもん日記
 実は環境にも人間にも優しかった現代文明 −物は言いよう−
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20131126/1385475712

■人間が環境に優しいのか、環境が人間に優しいのか
 元記事は、現代農業は環境や人間に優しいかというテーマでした。人間に優しいとは、当然、現代の生きている人間に優しいということで意味は明確ですが、「環境にやさしい」というのは少し曖昧です。
 
 「環境に優しい」という意味には,人間が手を掛けて「環境」を保護する立場と,出来るだけ干渉せず(全く無関係はありえないから)自然のままに放って置くという立場がありますね。後者の立場では,絶滅する生物は絶滅するに任せますし、人間に危害を与えるものも放って置きますから、人間には優しくありません。この立場は、学術的興味から限定的に行われています。

 一方、前者の立場では,どのように保護するかというところに人間に価値観が表れます。つまり、人間に都合の良いように保護するわけで,普通は、「人間に優しい」ように保護します。鯨は保護するけど,ゴキブリやインフルエンザウイルスは保護しません。つまり、環境が人間に優しくなければならないのであって、人間が環境に優しくするのではありません。この立場では「環境に優しい」は誤解の多い表現です。また、人間の価値観は様々なので,この立場の中でも意見が分かれます。

■現代都市環境は人間に優しいか?
 自然環境ではありませんが,都市環境でも同じような話があります。歴史的建造物の保存という問題です。保存にもいろいろあって,ファサードだけ保存して内部は現代的に改装することもあります。学術的な立場の中には,そう言うのは保存とは言わないという先生もいます。あるがままに保存しなければならないと。ところがですね,建築物は人間が造り,頻繁に修理しているわけです。従って,いつの時点の状態で保存するのかが問題になります。創建時はジョボかったけど,ある時代に素晴らしく改築されたということもあるわけですよ。どの時点の状態にしたらよいかだけで議論になります。

 この建築分野のあるがままに保存というのは,自然に人間が干渉しないという環境保護に似ていますが,実は人間も自然の一部という事実が如実に現れます。人間が修理や改築を行うのが建築ですから。あるがままに保存するのなら,そのような行為も含めて保存すべきで,使いやすいように内部は改装してファサードだけ残すことも認めないといけません。しかし、昔の改装は認めるけど、現代のそれは認めないというダブスタの面があります。

 それはなぜかというと、あるがまま保存とは、絶滅危惧種の保護のようなもので、そこらへんで見かける建物は対象にならないのです。つまり,建築歴史の学術的興味による記録の博物館的保存であって,生きた建築の保存ではないと言えます。一部の専門家にとって価値があり稀少だから保存したいのであって、建築主(都市住民)にとって価値があるから保存したいのではありません。

 そういうことであれば、保存したい人の費用で処置すべきですが、そんなお金はありません。そこで、建築主に保存してくれとラブレターを出すということになります。これは当然、お願い事であって命令ではありません。ですが、少し圧力がかかるようにします。専門家の興味という理由ではなくて、公共的価値があるという理由を強調してです。確かに、建築物は私有財産であるとともに、都市の景観を形成していますので、公共的側面があります。公共的価値があるのなら、建築主が費用負担してくれてもよいだろうし、それが無理なら、国や自治体が負担すべきだという理屈です。

 ただ、そういう理由だとすると、現代の生きた都市景観としての価値ですから、あるがままに博物館的保存にしなくても、ファサード保存でも十分のはずです。生きた建築や都市景観の保存というのは,現在生きている人間のために保存するわけで、過去のある時点で凍結して博物館にすることではありませんから。もっとも、博物館的にして集客することもあります。観光地やテーマパークの類ですが、これは博物館風にして活用してのであって、結局、現代人の役にたっています。

■趣味の延長の農業
 話を環境や農業に戻してみると、過去のある時点の環境や農業を凍結してアーミッシュの様な生活にするのが理想と考える少数派もいます。しかし、どの時代にするかは相当恣意的ですし、多数が賛成するとは思えません。都市分野でも、最近は木造が復権していて、木造都市を目指す人はいますが、竪穴住居まで戻そうという人はいません。木造都市といっても、数奇屋建築にするのではなく、新技術を用いた新しい木造です。

現代も含めた過去のどの時代が一番人間に総合的に優しかったかは、十分検証しないと分かりません。どんな時代でも、部分的になら優しい面も、厳しい面もあります。また、多数の人間から見て、つまり「公共」の視点でです。「環境」は最も規模の大きい「公共」です。にもかかわらず、個人的趣味レベルとしか思えない意見が「環境」や「農業」分野では見られます。

田舎に引っ込んで、古い木造民家に住み、自給自足程度の耕作を行う有名人もいますが、裕福だからできる趣味でしょう。現代都市全体を江戸時代に戻すのは不可能なことは明白です。ところが、農業全体を、無農薬、有機栽培に出来るし、すべきだという意見があるのはなぜなのでしょうか。趣味の日曜大工と建設業を同列に論じる人はいませんが、趣味の家庭菜園と産業としての農業をあまり区別しないのはなぜでしょうか。「産業としての農業」とあえて書かなければならず、「建設業」のように単に「農業」と私が書かなかったのはなぜでしょうか。

日本の農業は、戦後に、制度が凍結されてしまい、趣味と産業が十分分化できていないような気がします。