被害を容認し,事後的措置

○クレーマー
 前回に引き続き,次のブログ記事を読んで思ったことです。ただし,前回とは逆方向で、リンク先の記事とどちらかといえば同趣旨の「事故が予測できても予防しないこともある」というような内容です。

「稀な危機 vs ありふれた失敗−リスク対策の優先順位を考える 」
http://brevis.exblog.jp/21196660/  

 たまに,台風などの不可抗力による電車の遅れなのに,クレームを駅員に言う人を見かけます。この様な人は,自然現象も完全に管理出来るはずだという,絶大な信頼を鉄道会社に寄せているのでしょう。鉄道会社の方でも「ご迷惑をおかけしております,まことに申し訳ありません。」などと「謝罪」アナウンスをしますね。まあ,これは「お客向けの謙った表現に過ぎない」とクレーマー以外の人は理解しているわけですが,場合によっては普通の人やメディアも,非常識なクレーマーのように,「失敗は許されない,失敗するのは怠慢があったから」と批判します。結構,微妙な問題です。
○事後的な対策はトラブル容認
 事後的な対応にするということは,トラブル発生を認めることですから,クレーマーならとても容認出来ないでしょう。でも,少し以前までは,事後的な措置はありふれていました。日本の家屋は,台風や地震で頻繁に被害を受けてきました。被害を受けないように丈夫に作るのは,費用がかかりすぎるので,被害を受けたら修理したり,建て替えると言うのが一般的でした。しかし,今では,地震被害は手抜き工事が原因ではないかと賠償を求める人もいるかもしれません。事後的な措置への許容度は時代と共に厳しくなります。それが進歩というものでしょう。クレーマーは時代の最先端を走っていると言えなくもありません。

 といっても,総てのトラブルをなくすことは出来ません。現代でも大地震津波に対しては,予防によって無被害にするという考え方ではありません。多少の被害は諦めています。人間の技術力や経済力には限度があるという厳然たる事実があるのですが,どんなことでも出来ると勘違いしてしまう人が多いようです。そのため,災害が発生すると,人為的な怠慢やミスが有ったはずだと原因者を捜し,責任追及しがちです。そして,これに当事者が正面切って異を唱えるのは反発を招きます。大抵は,回りが「まあ,そうは言っても無理だよね」となんとなく落ち着くのを待つのが普通です。公式な「回り」として裁判がありますが,責任は問えないと判決が出ても,原告は「納得出来ない」とコメントしますね。微妙な問題なのです。

 例えば,津波ですが,日本の建築は津波のことはほとんど考えていませんでした。それが東日本大地震で大きな被害を受けて,なんとかせねばという機運が一時盛り上がりました。しかし,数メートルの津波ならなんとか対応出来ても,数十メートルの津波対策となると莫大な費用が必要になり非現実的なことが直ぐに分かりました。結局,津波対策のガイドラインの類は作られましたが,避難や復旧という事後対策が中心で,建物を無被害にすると言うものではありません。この場合は,建築関係者は怠慢だとか,無責任だというような批判は起きませんでした。世論としても現実的なところに落ち着いたわけです。平地には住まないとか,家屋は建てないことにすれば,津波被害や家屋倒壊による被害は防げます。この様な対応は例えば原発を止めるようなことに対応します。ただ,そのデメリットは大きすぎるので,今の社会は被害の方を受け入れています。でも,我が家が津波に襲われ,家族に犠牲者がでれば,簡単には受け入れがたいかもしれません。社会全体を公的に考える場合と,私的に考える場合で違ってくるという微妙な問題です。
○判断は変わって来る
 岩手県普代村の防潮堤は建設当時はお金の無駄使いと批判されたそうです。今なら,景観を損なう環境破壊だと批判されるかも知れません。しかし,東日本大地震後は,感謝や称賛を受けました。私は,建設当時の批判ももっともではないかという気がします。1933年の津波被害の経験からこの防潮堤が1970年に作られたそうですが,1933年の次が2011年ですから,80年に1回の災害のための施設のようなものです。当時の村の経済力との比較での判断になりますから,一概には言えませんが,東日本大地震で効果があったから,良い判断だったと即断することも出来ないと思います。難しい判断なのです。

 ただ,経済や技術の発展で,事前対策が現実的になるということはあります。1970年には疑問だったかもしれないけど,今なら妥当な判断かもしれません。それでも,防潮堤建設には反対意見も多く有ります。なので,クレーマーの理不尽な要求も将来の目標としては意味があるでしょう。困るのは,「今出来るでしょ」と思っていることです。事故の責任を問うメディアも,似たところがあります。