回復不能,破綻

○旅行を行う場合の事前対策と事後対策
 下記のブログ記事では,「飛行機で移動するとき、注意すべきなのは墜落事故ではなく、ありふれた遅延なのである。」と述べています。旅行計画を立てる場合の留意点です。 

「稀な危機 vs ありふれた失敗−リスク対策の優先順位を考える 」
http://brevis.exblog.jp/21196660/ 

 旅行計画以外にも一般化して言うと,「滅多に起こらないが、インパクトが大きい」リスクよりも「インパクトは小さいが、頻度が高い」リスクへの対策を優先した方が,コストパフォーマンスが高いということですね。理由は,頻度の高い事例は「過去から学びやすい」ということで確かにそのとおりです。さらに,あまりにインパクトの大きなリスクの予防策は費用が大きすぎて,事後的な対応の方が経済的であるとも述べられており,それもそのとおりでしょう。旅行計画以外にもある程度の一般化は可能に思えます。

 このブログ記事では,発生頻度と影響度の説明図が示されています。この図で「C」と表示されている「頻度が高く,影響度は小さい」トラブルと「B」と表示されている「頻度が低く影響度が大きい」トラブルは,リスク(=影響度×頻度)は同じ程度です。しかし,対策は「C」を優先し,「B」は事後的な対応にした方が経済的というわけです。

○説明図に抜けている領域
 この図は,概念図なので有限の領域になっています。頻度は100%が上限なので確かに有限ですが,影響度は,有限とは限りません。図の外側右の領域の事象もあります。事故で死亡というのが最大の影響度でしょうが,この影響度は有限の値ではなく,無限と評価すべきでしょう。ただ,死亡する可能性は,普段の生活でもあり、飛行機旅行で増えるわけでもありません(むしろ減る)から,旅行によって増減する事象(トラブル)に限った図と理解すべきでしょう。旅行計画のような場合に考慮すべきはその範囲で十分です。

 しかし,普段は一緒に行動しない人間が同じ計画に従い同時に行動する場合は、死亡の影響がその計画によって変わってきます。死ぬ人数で影響度は違うからです。この図の外側右の領域も考慮する必要が出てきます。

 例えば,サッカーチームが全員同じ飛行機に乗って移動すれば,万が一の事故でチームは壊滅します。普通は危険分散し,複数の手段で移動します。ここで,移動を分けても,リスク(事故で死亡する人数の期待値)は変わらないことに注意する必要があります。1機で移動しようが,2機に分乗しようが,墜落事故の確率は変わらず,事故で死亡する人数の期待値は同じです。では,何が違うかというと,分乗した方が,チーム全員が死亡する確率が非常に低くなることです。その代わりに,半数が死亡する確率は増えます。リスクは変わらないのに分乗を選択するというのは壊滅的な事態を出来るだけ避けるためには,小さな被害の可能性は増えても構わないという判断です。

 つまり,リスク(頻度×影響度)だけでなく,ハザード(影響度)の大きさも考慮する必要が出てきます。サッカーチームは数十人ですが,町や市,国というレベルになると人数はどんどん増えていき,説明図の右側の領域も広がって行きます。それを追加したのが下図です。被害のリスクは「発生頻度×被害の大きさ」ですので,同じリスクは図上で双曲線で表されます。許容出来るリスクを青い線で示しています。しかし,リスクは小さくても,影響度が大きくなると許容出来ないと考える人は多くなります。その限度を赤い線で示しています。サッカーチームなら全員死亡というような影響度になります。

○判断
 赤線より右側の領域の頻度がある程度あり得るならば,計画実施の前提のもとでの細部の対策(事前対策か事後対応かなど)を考慮するだけではなく,そもそもの前提の計画の内容を見直す必要があります。一機の飛行機で移動する計画を見直し分乗に変更したり,一機の巨大な原発計画を見直し,別の小規模発電方式の分散配置にするとかです。原発に付いては,「不公平を内在する原発(1)(2)」でもう少し詳しく述べました。
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20130720/1374289086
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20130720/1374289328

 個人はいずれ死にますし、普段の生活と死亡の可能性が変わらないのであれば、計画に伴う死亡事故を考慮する必要はありません。しかし、社会的集団(チーム、自治体、国、人類)の多くは一応永続させるものと考えるべきでしょう。個人は子孫や遺産を残せば、死んでも良いというか死なざるをえませんが、社会的集団は途絶えさせないようにすべきでしょう。従って、回復不能な破綻の可能性があるような計画は避けるべきと思います。

 影響度の大きいトラブルでも,回復可能なら事後的措置が経済的な場合がありますが,回復不可能なら,計画を見直すべきということです。ただ,非常に厄介な問題がって,それは回復を考える対象を何と考えるかです。個人の命なのか,家族の命なのか,一つの自治体なのか,国全体なのか。

 少数の人間を救うために多数の命が犠牲になるなら,少数の命は諦めるというのが,ほとんどの公的な判断です。例えば,難病の子供を救う高額の治療法があっても,国は子供を救うために予算を使うと言うことはしません。伝染病防疫など社会的必要性が無ければ国は動けません。限られた予算を使えば,通常の医療補助などで,助かる他の多数の命が犠牲になるかも知れません。治療費を捻出するには、募金のような手段しかないでしょう。募金するのは個人であり,任意で行えるから可能なのです。世の中の援助を必要とする人々はこの子供だけではありませんから,総てに募金することは不可能です。自分が気になる相手だけに任意で募金できから可能なのです。国の様に最大多数が納得するようなお金の配分をしなければならない場合はそうは行きません。

 これは,ある意味で多数のために少数を犠牲にすると言えなくもありません。ただ,積極的な犠牲を強いるのではなく,見殺しにするだけですが。もし積極的に犠牲を強いることまですべきかとなると非常に難しい問題です。極めて厳しい状況ではそのような判断もあり得るし,現実にあります。強いるのはやり過ぎだとしても,自主的に犠牲的行為を行う者を募るということはあるかも知れません。

 国民全体の利益を考えなければならない国は,原発を採用します。利益の期待値なら立地の市町村は他の地域より大きい筈です。しかし,回復不能の事故,つまり市町村の壊滅という可能性があります。一方,国レベルなら回復可能です。

 実際の立地場所の自治体は犠牲的精神で引き受けていたのでしょうか。万が一の場合,自治体が破綻する可能性があっても、引き受ける価値があると考えていたのでしょうか。行う価値があるとは,誰かが引き受けなければ,国全体が衰退するような事態があり得るとういうようなことですが。