社会的合意の根拠探し

MEさんの懸念
 「身近な危険は気にしないが,希な危険は恐れる」
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20130905/1378414359
へのMEさんの次のコメントを読んでいて、昔考えていたことを思い出しました。

>もとより一意の「正解」の求められない種類の話に、「それ自体で結論を導くに足る根拠(を装うもの)」を持ち込むやりくちへの懸念。もうひとつうまく言えないものか。

 多分、社会的合意にかんすることなのに、科学的に決定出来ると誤解している人が多いことへの懸念なのだと思います。私が、このことを意識するようになったのは、数十年前の学生のころのことで、建築材料の安全率や、設計用外力はどうやって決めるのだろうという疑問を持ったのがきっかけです。

安全率、設計用外力
 例えば、コンクリートの長期許容圧縮応力度は、実験によって求めた破壊応力度の1/3、短期許容圧縮応力度はその2倍とします。つまり、安全率は3と1.5です。この値はどうやって決めたのかという疑問でした。もう一つの疑問は、地震力のような設計用外力はどのようにして決めるのかでした。

 地震力の方は、考えうる最大の地震ではなく、建物の寿命中に数回は遭遇するであろう大きさの地震(震度5程度)となっています。数十回ではなく、数回なのは何故?数千年の期間ではなく、建物の寿命中なのは何故?実際のところ、福島原発では、千年に一回という津波を考慮していなかったことを批判する人もいたわけです。

 面白いのは、長期(常時)と短期(地震時など)の許容応力度は、昔(関東大震災後の市街地建築物法)は同じでした。そのかわり、地震力が半分でした。それ以前は常時荷重のみで地震は考えていませんでした。短期の応力度は長期の応力度に地震時の応力度が加算されますから、短期の方が大きくなります。許容応力度が同じ昔のやり方では、必ず短期で決まるにことになります。しかし、今のやり方では、常時応力と地震時応力の比率によっては、長期で決まることもありえます。この変更にはどう言う意味があるのでしょうか。(*1

社会的合意
 教科書の類には、そのあたりの説明はあまりありません。「安全率は○○とする。地震力は△△とする」と結果しか書いてない場合がほとんどです。私が思うには、これらの決定は社会的合意なので、教科書には書きにくいのだと思います。社会的合意とは、関係者が原案を作り、最終的には国会で承認されるということです。

 関係者の合意を得るためには、決定的とは言えなくても、それらしい根拠と筋が通っているストーリーがあった方がよいです。現行の考え方は、地震力に関して言えば、常時の荷重で建物に亀裂が入ったりするのは許容出来ず、完全に無被害であるべきかもしれないが、まれに遭遇する地震の場合は、多少の被害はやむを得ないだろうというものです。地震時にも無被害であるようにすれば、常時は極めて余裕のある無駄な投資になります。それよりも、地震時に軽い被害を受けても、補修して使用したほうが経済的というのはそれらしいストーリーでしょう。このストーリーに整合させると、短期許容応力度は長期より大きくなります。ただ、結果的に建物の安全性が昔よりも劣るのは拙いので、地震力の方を大きくしたのではないでしょうか。

 ただし、多少の被害をもたらす地震が頻繁に起こるようでは「まあ仕方ない」とはならないでしょうから、実際、どの程度発生するのか確認する必要があります。確認したところ、昔に比べて大きさを2倍にした地震震度5強)は、建物の寿命中に数回の発生頻度であることがわかり辻褄が合うのです。昔の地震力を2倍にしたら、なんとなく妥当と思える頻度の地震になったのは、建築が経験工学であって、昔も経験的にそれほど変な設計にはなっていなかったということでしょう。結果としての建物の安全性は昔も今も大きく変わらないにしても、その裏付けとなる考え方の整理は進展しているということかもしれません。

 ついでに言えば、現在の設計では、建物寿命中に1回遭遇するかしないかという大地震震度6〜7)に対しては、補修不可能かもしれない被害も認めています。しかし、避難可能なように倒壊はせず、人命は最低限守るという考え方になっています。このような考え方(思想)は社会的合意であって、「科学的考え方」とは範疇の異なるものです。

 安全率も同様です。コンクリートの長期許容応力度が実験の平均値の1/3になっているのは、材料のばらつきや荷重の不確実性などの理由のためですが、不良率を5%にするか1%にするのかは、「社会的合意」としか言えません。非常に経済的に厳しく、建築の安全よりも、食品などに資源を回さなければならない社会では、安全率はもっと小さくなると考えられます。実際、日本の建築は世界的に厳しいのですが、それは経済的に裕福だからでしょう。日本だって昔は地震を考慮していなかったのですが、その時代から当然地震があることは分かっており「科学的知見」はそれほど変わっていません。変わったのは「社会的許容度」です。

「科学」と工学
 以上の話の具体的なところは、建築に関わっている人なら理解しているのですが、それが、「社会的合意」に属することだとは思わず、「科学的」な考え方から導き出されると思っている人もいるようです。「安全率」や「設計用・・・」という詞は、工学、医学などの実用目的の分野にしかないもので、数学(*2)や物理などの「自然科学」には出てきません。実用目的には、どのようなものや状態を良いと考えるかという価値観が必須ですが、「自然科学」には価値観はなく、自然がどのようになっているかをあるがままに調べるだけです。

 核兵器放射能被害について、「科学」の責任を問うたり、不信に陥る人がいますが、工学の分野の「社会的合意」に関することまで、「科学」だと勘違いしている人と同じ勘違いを犯しているのではないでしょうか。工学やそれを承認し社会で利用している人たちには、責任がありますが、別に「科学」の問題ではないでしょう。

社会的合意の判断根拠
 「科学」を批判する人も、「科学」を過信する人も、工学と「科学」の違いをあまり意識していないのかもしれません。「科学」を批判する人は、「科学」の有用な工学への応用も否定し、「科学」を過信するひとは、「社会的合意」も「科学」で決まると思い込いでいるのかもしれません。これが、いろいろ混乱を引き起こしているのですが、その解決策が「リスク論」だと思います。「リスク論」は確率論を用いて様々なリスクを同じ尺度で評価しようというものです。これも「科学」ではなくて工学の範疇ではないかと思います。様々なリスクを同じ尺度で評価するにあたり、価値観による判断が絡んでくるからです。いわゆる文系、理系という分類では、工学は理系に属するのですが、社会的合意を含んでいます。「社会的合意」については、文系の分野でいろいろと考えられていると思います。それが総て有用なものかどうか私は知りませんが、心理学の知見は重要だと思います。そして面白いことに心理学はほとんど「科学」であるような気がします。人間の心理がどのようなものであるか、身も蓋もなく調べるだけだからです。良い悪いの価値観は不要ですから。

 なお、リスク論はとりあえず、確率的期待値だけを考えている段階ですが、「社会的合意」にはそれだけでは不充分です。確率的期待値以外に何があるかについては、「不公平を内在する原発(1)(2)」に一つ書きましたが、他にもあるかもしれません。
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20130720/1374289086
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20130720/1374289328

*1:1981年の改正で、現在はさらに変わっている

*2:数学でも統計的検定は例外であり、有意水準5%とか1%という考え方がある。これは製品検査などの数学の現実問題への応用であり、工学に近い。