エスカレーターは階段ではない

意識は自分を知らない
 「意識は傍観者である」(デイヴィッド・イーグルマン,太田直子訳)という本に次の記述があります。

車線変更
 あなたの脳が知っていることと,あなたの心がアクセスできることのあいだには,底知れない溝がある。車を運転しているときに車線を変更するという単純な行動について考えてみたい。目を閉じて,頭のなかのハンドルを握り,車線変更の動きをやってみよう。左車線を走っていて,右車線に移ろうとしているところだ。読み進める前に,実際に本を置いてやってみてほしい。きちんとできたら100点をあげよう。
 かなり簡単な課題でしょう?私の予想では,あなたはハンドルをまっすぐにして握り,それから少しのあいだ右に切って,それからまたまっすぐに戻した。簡単だ。
 ほとんどの人と同じように,あなたは完全に間違えている。ハンドルを少し右に回して,それを元のまっすぐな状態に戻す動きでは,車は道路をはずれてしまう。つまり,左車線から歩道に突き進むだけだ。車線変更の正しい動きは,ハンドルを右に切ったあと,中央に戻してさらに同じだけ左側に回してから,はじめてまっすぐにするのだ。信じられない?今度車に乗るときに確かめてほしい。とても単純な動きなので,あなたは日常の運転で何の問題も無くこなしている。しかし無理に意識して事に臨むと混乱するのだ。

 この話は,単純な動きでも,脳が無意識に司っているのであって,意識は驚くほどその動きを分かっていない,しかも,分かっていると思い込んでいるということです。
 このことは,エントリーの後半で思い出して頂く事にして,一旦話題を変えます。
 
エスカレーター歩行禁止
 JR東日本がこの夏,エスカレーター上での歩行禁止を打ち出しました。

YOMIURI ONLINE(読売新聞)より

JR東日本では、利用客がエスカレーター上でけがをする事故は年間約250件に上っている。今年5月には、東京都内の駅で松葉づえを持った中年男性が、横 をすり抜けた利用客にぶつかられて転倒、頭などを打撲した。昨年9月には、都内の別の駅で高齢男性が急ぎ足で駆け降りていたところ、転んでエスカレーター の下まで落ちてけがをする事故が発生した。

 こうした状況を重く見たJR東日本は、エスカレーター上での「歩行禁止」を打ち出した。7月から「歩かない」などと記したステッカーを管内のエスカレーター全1770台付近に貼り、啓発運動に乗り出した。

 これに対して,ちょっとアレな反対意見もあります。

エスカレーターで「片側開けるな」という愚かなキャンペーンをJR東日本が始めた模様。
http://anond.hatelabo.jp/20130809114618

 意見は様々ですが,先ず前提として知って置くべきことは,エスカレーターは輸送機械であって,運転中に人が歩くことを想定して設計されていないこと。バス車内では,「運転中は車内の移動は危険ですので控えて下さい」とアナウンスしていますが,あれと同じです。

日本エレベーター協会
エスカレーターの安全基準は、ステップ上に立ち止まって利用することを前提にしています
http://www.n-elekyo.or.jp/instructions/escalator.html

 とはいえ,歩いてもまあ危険は無いだろうと,歩行が黙認されて来たというのが実態です。ところが,事故は少なからず発生しています。東京消防庁エスカレーター事故の調査を行い,「手すりを利用し歩行は避ける。」という提言を行っています。

東京消防庁の提言
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/hp-seianka/es/eszen.pdf#search='%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E5%9F%BA%E6%BA%96+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B6%88%E9%98%B2%E5%BA%81'

 上記調査によると,平成16年8月30日から12月31日までの4ヶ月間の東京消防庁管轄区域内での事故は,1,317件発生しており,その内1,261件が「転倒・転落」です。歩行時の事故は25%程度です。
 特に高齢者,障害者の事故が多くなっています。高齢者にとっては,自分は歩かなくても横を歩行者通過されるだけで危険です。健常者は自分の感覚だけで判断しがちですが,自分と同じ人達ばかりではないという想像力は大事です。

止まったエスカレーター
 さて,運転中は歩行しないとしても,止まっているなら歩行せざるを得ないわけですが,これもまた危険なのです。建築基準法によって,階段には踊り場を高さ3又4m以内に設置しなければなりません。しかし,踊り場のあるエスカレーターは希です。一旦転倒したら,蒲田行進曲ばりの大階段落ちを演じる可能性があります。さらに,乗り場と降り場付近では,蹴上の高さが変化しますので,空足を踏んで躓き易いことは多くの人が経験済みでしょう。

 また,建築基準法では,床面積の合計が1,500 ㎡を超える店舗、劇場等の客用の階段の蹴上げは180mm以下にしなければなりませんが,エスカレータの蹴上げは200〜220mmあります。さらに国交省告示で「高齢者等への配慮に関する評価基準」に階段の寸法基準がありますが,エスカレーターはこれも満たしていません。

 深い地下鉄駅では数階分の高さのエスカレーターがあります。踊り場なしの一直線のエスカレーターです。あれを見て居ると恐怖感を覚えます。もし転んだらどうなるかと。スキーをしていると,斜度が同じでも長い斜面は恐怖感が増します。富士山程度の斜度の斜面はスキー場にいくらでもありますが,富士山を滑ることができるのは転ばない自信があるエキスパートのみです。
 
 東日本大震災後の停電で,駅の停止したエスカレーターは利用禁止になっていました。混雑しているのに,どうして階段として利用させないのだと疑問に思った人もいるかも知れませんが,危険だからです。施設の管理者責任も問われます。
 
歩くには訓練が必要
 ここで,冒頭の引用文を思い出して下さい。車のハンドル操作はこともなげに行えますが,大抵の人は教習所で覚え始めた頃,ハンドルを戻すのがおくれたりして,思わぬ方向に走った経験があるのではないでしょうか。教習所が有ると言うことは,単純なハンドル操作にも訓練が必要ということです。同様に動いているエスカレーターに乗り込むのも訓練が必要です。それは子供の頃を思い出して頂ければ分かると思います。ところが,経験を積み,よそ見していてもできる様になると,今度は止まっているエスカレーターに巧く乗り込めなくなります。止まっているエスカレーターに乗り込もうとすると違和感を感じることは結構話題になっています。研究した人もいます。

「運転停止エスカレータに乗込む際の潜在的運動制御 : 違和感の原因を探る」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006163679/

 人間の運動の殆どは意識が関与しない運動プログラミングによるものですが,違和感は,運転停止エスカレーターに乗り込む運動プログラミングができておらず,運転中エスカレーターに乗り込むプログラムが誤作動するため,という説のようです。エスカレーターには,大抵の人が経験を積み,スムースに乗ることができるようになっています。しかし,止まっているエスカレーターを昇る経験が十分に有る人は殆どいません。

 人間は知覚した刺激を意識するまで0.5秒ほど時間がかかるそうです。つまり,我々が認識している外界は0.5秒ほど過去の世界なのですね。普通に歩けば0.5秒で50センチほど進みます。自分がいると意識している地点よりも,現実の体は50センチ先にあることになります。従って,何かを知覚したのを意識してから,反応しても遅すぎるのです。ボールが飛んできたのを意識してから避けようとしてもその時は既にぶつかっています。実際は無意識に避けていて,後からボールを見たのを意識してから避けたと思い込んでいるだけらしいです。このような機敏で咄嗟な反応を要する運動は,熟練による無意識の自動運動です。いわゆる運動神経が良いとは自動運動がスムーズなことです。ハンドル操作もエスカレーターに乗るのも同様に無意識の自動運動なのでしょう。

 大抵のことは無意識に行っていて,意識はそのごく一部を後からモニターしているだけなのに,意識的に行ったと思い込んでいるのですね。日常の行動を思い返してみれば確かにそんな気がします。では意識の意義は何なのだという大問題になりますが,それは結構難しい問題で,私には良く理解できていません。当面,自覚しておいた方が良いと思うのは,人間は無意識の行動が殆どであり,意識を過信するなというです。無意識の行動は非常に巧く働きますが,たまに巧くいかないこともあり,それを意識で修正しようとしても巧くいかないどころか,ますますぎくしゃくするということです。

 事故調査報告を読んでいると,何故こんな馬鹿な行動をしたのかと思うことが良くあります。日常の行動でも良く馬鹿なことをしてしまいます。これらは,無意識の行動プログラミングが巧くいかなかったと解釈すると納得出来ます。馬鹿なのではなく,それが普通の人間だと思います。

とにかく,意識している以上にエスカレーターを歩くのは危険のようですよ。エスカレーター,エレベーター,回転ドア,これって子供の頃怖くありませんでした?大人になるとすっかり忘れているかもしれませんが。