「命はお金には換えられない」のミスリード

隕石バリヤ
 3000万円の高級車フェラーリを私は持っています(ウソ)。なにせ高級車なので、維持管理費用も高額です。あるとき、胡散臭い業者が来て言いました。「あなたは知らないかもしれないが、最近、隕石が車に落ちるという事故が起きている。当社は、隕石から車を守るバリヤ装置を開発した。是非つけたほうがよい。」ひやかしで、値段を聞いてみると、1000万円!
 「そんなもの買えるはずがない」と言うと、「いいですか、3000万円の車が1000万円で守れるのですよ。1000万円をケチって、3000万円を失うかもしれませんよ。」と。私は、早速契約書にサインした。馬鹿か。

視野狭窄
 「命はお金には換えられない」というフレーズはしばしば用いられます。お金で死んだ人を生き返らせることはできないとか,人身売買はできない,のような意味合いです。それはその通りです。しかし,「命を救うためには,お金をいくら注ぎ込んでも良い」と後に続く場合はミスリードです。

 ある病気の防疫を行えば,100年間に1人の命を救えるとします。ただし,費用が年間1兆円,100年間では100兆円必要です。100兆円で一人の命を救うことになりますが,命はお金には換えられないので,防疫をすべきでしょうか。しかし,100兆円を他の病気対策や交通事故対策に回せば,数万人もの命を救える可能性が有ります。つまり,この防疫は一人の命を救うために,数万人の命を引き替えしたことになります。良い選択とは言えないでしょう。
 
 隕石バリヤは馬鹿げて思えるのに、防疫は必要だと考える人が多いようで、輸入牛肉の全頭検査をしたり、放射能汚染を恐れて東京から脱出する人がいました。浪江町から福島市へ避難ではなく、東京からです。私は、茨城県つくば市から脱出した人を知っています。不安に耐えられないなら精神の安定のため引越ししたほうが良い場合もあると思いますが、引越しにも危険が伴います。子どもを地方の祖父母の元に避難させたため、目が行き届かなくて交通事故に遭ったというニュースもありました。

 隕石バリヤの間違いは、車両価格と車の維持費用を比べてしまったことです。1000万円は車両価格ではなく、他の維持管理費と比べるべきものです。防疫費用1兆円と比較する対象は,命ではなくて,他の命を救う対策、つまり命の維持管理費です。
 従って、他に費用を要する対策は一切無く,命を維持するための食事などにも費用が不要という非現実的な状況ならば,100兆円をその予防接種に投じるべきでしょう。というか,他に100兆円を注ぎ込む対象は存在しないのですから,100兆円を持っていても仕方有りません。というか,そのような状況では,100兆円というお金の概念も無いはずです。お金は異なる物品やサービスの価値を比較するためのものですから,比較対象(交換,取引対象)が無ければお金は不要です。

 「お金には換えられない命だから,命を救うためにはいくらでも費用を投じてよい」という考えは,食事をしないでも生きられると勘違いしているわけです。他のことは一切頭の中から消えてしまっているのです。健康の為なら命も惜しまないようなものです。
 
 現実には,当たり前だけど,命を維持するために,食事をしたり,睡眠を取ったり,交通事故に遭わないようにしたり,海で溺れないようにしたり,住んでいる建物が壊れないようにしたりしなければなりません。病気を発見したり,治療するために総ての費用を投じてしまえば,生きていられないことになります。BSE放射能だけが,命に関わるわけではありませんし、むしろ関わりの程度は非常に小さいということを知る必要があります。

 個人の視点と公的視点
 命の価値のようなものを考える場合,極めて個人的な感情で考えるしかありません。とにかく、それが出発点です。自分自身や親しい人の命を考えているのならば,愛する人のためなら総てを投げ出してよいと感じられるでしょう。しかし,その総てに他の見知らぬ人の命が含まれるならどうでしょうか。その人の命を犠牲にして愛する人を救うべきでしょうか。

 多分,悩むでしょうが,実は大抵の場合,見知らぬ人の命を犠牲にしています。見知らぬ世界の難民の為に,寄付する金額には限りがあって,自分や家族の生活を犠牲にするような寄付はしません。命はお金には換えられないというのは,自分や愛する人の命だから実感できるのだと思います。見知らぬ人の命をすべて実感していたら、精神が耐えられないのではないでしょうか。しかし、公的な判断では問題が有ります。公的には万民は平等に扱わなければなりません。公的な判断と個人の感情の齟齬が結構厄介な問題で,公的な判断を行う行政が非人間的に見えることがあります。

BSEになるかもしれないのに,国は何故全頭検査を行わないのか。
・直ちに健康に影響は無いと言って,危険な食品を回収しないのか。
閾値のない放射線はわずかでもがんになるかもしれない。

 このような心配に配慮して、対策を行うことは、隕石バリアを車に付けるようなもので、公的な対応としては危険を増やします。ところが、冷静にそのような判断を行えば、冷血漢と見られがちです。それどころか、大企業の利権のために国民を危険に晒しているという陰謀論まで現れます。自分や身近な姿の見える人が被る殆ど取るに足らない危険に囚われて,姿の見えない圧倒的多数の他者に大きな負担や危険を与えていることに思い至たらなくなります。他者だけでなく自分自身にも別の危険が降りかかり,それは取るに足らない危険よりも大きいにもかかわらずです。

 命の尊さを感情に訴えるには個別の事例を示すのが良く,抽象的理屈を言っても効果は有りません。難病に苦しむ少女のドキュメンタリー映像を使うというような手法が効果的です。問題は,その少女やその難病のことしか考えられなくなることです。現実には,他の難病に苦しむ人も沢山いますが,それは無視されます。
 「命はお金には換えられない」というフレーズは,特定の問題にお金を使わせる為に用いられることが多いです。