21年2月26日

 浦賀発。二人掛け椅子に三人掛ける。長崎行き臨時列車である。東海道沿線は殆ど爆撃を受けており、駅も大部分焼け、焼けた汽車等引き込み線に放置された侭である。工場は焼け落ち焼け曲がった鉄骨だけが建っている。名古屋市内は一面焼け野原である。大阪駅も同じである。内地もこれほどまでにやられてよく持ちこたえてこられたものと思う。大阪駅についた時小学6年くらいの男の子が車窓を開けてくれと叩く。開けた所窓から入り込もうとする。手と足を掴んで車内に入れてやったが「有り難う」と言いつつ荷物棚が50糎位空いているのを見、荷物棚に乗せてもらって良いかと言う。荷物を少しずつ詰めて乗せてやった。棚の上から「兵隊さん新円の交換があるよ。国へ帰ったら銀行ですぐこうかんしないと使えないよ。汽車に乗るのは窓からでないと乗り遅れるよ」と教えてくれる。勉強になった。
 ウトウト眠気を催していた所窓側の戦友が「ここが広島だとよ」と言って起こしてくれた。「ああそうか」と目を開け窓外を見ると建物が全然ない。見えるもの総て焼け野原である。「駅は?」と聞くと、「駅は先の方に建ててあるよ」と言う。事実汽車はどこかの原っぱにでも停車した感じである。話に聞いてはいたが本当に原爆とはひどい爆弾だと思った。午前6時すぎ佐賀駅着。O麻先生へ挨拶。T口先生病気だが面会挨拶する。鹿島駅下車T中慶次先生へ挨拶。諫早駅で乗り換えのため待合室へ入り夜風を避けていたところ、20歳位の女性が風呂敷包みを整理中で芋が二つ落ち足許へ転んできた。拾い上げ渡したところ、「沢山持ってきたので風呂敷に包みきれずにいるんです。兵隊さんもご苦労様でした。帰られて家で食べてください」と言って大きな芋を三個新聞紙に包んでくれた。一応断ったが無理に持たされたのでお礼を言い,貰うことにした。最終列車寒くて淋しい。