20年9月上旬 日系二世の通訳により兵器提出

 その後米豪軍ジープに乗り「エイ」と大声を上げ猛スピードで走るのを見る。兵器提出処分の命があり、海岸砂浜へ各隊毎に機関銃、小銃、手榴弾、山砲弾、各種火薬類等員数を記載し並べる。二世の通訳指示により大発に搭載、約2粁沖に沈める。今日までなじみ親しんで来たかけがえのないものであり、別れの目礼をおくる。
 数日後ショートランド諸島の一小島(無人島)に移動させられ宿舎を建てた。所謂収容所である。其処では主食はパン一個にチーズ、肉缶等一個を3人くらいで分配したが、不足したのは勿論のことである。が、そこは兵隊のことである。小さい島を回っては色んな補給をつけたものである。第一カヌーを見つけて来たことは魚貝類の収穫に大助かりであった。兵隊は夫夫釣り針や銛をつくり、スコップの先を研ぎ、長い縄も作った。ここで沖縄糸満出身者が凄い力量を発揮した。小生は潜水が不得手なのでカヌーの漕ぎ手になる。潜水者は長い縄の一端を身に結び他の一端を舟に結わえ付けて置く。珊瑚礁の岩間で大きな貝が花を咲かせたように開き、ゆらゆら揺れている。潜水者はそれをめがけて貝柱にスコップを打ち込む。貝柱が切れて閉じることが出来ない。小刀で貝柱を切り外し、貝の身の部分に縄をくくりつけ縄を引いて合図する。舟で待機していた小生等が縄を引き上げ舟に載せる。3個位貝をとると舟も一杯になり岸へ急ぐ。岸に着き砂浜にそのままにしておくと砂だらけになるので、ジャングルまで運んで枝に吊り下げる。ドラム缶に湯を沸かして湯がき燻製する。貝柱の大きいのは径20糎位ありパンの副食として十分であった。亦椰子の実から油を作り、それぞれの工夫で料理を作りあった。
 或日大隊から炊事当番一名必要と言ってきていると聞いたので、俺が行こうかと言った。出来るなら言って良いと言われたので「善いこともあるさ」と軍隊で初めての炊事に出る。午前一時起床。パン粉をこねる。暫くそのままにして、ドラム缶で作ったパン焼き釜に火をつける。こねたパン粉を計りにかけ重量を一様にして丸くしパン焼き釜に入れるのである。
 始めに釜に入れた分は小さいが、あとの分は大きくふくれる。中隊分配の時よくふくれた大きいのをくれといわれるが、限りがあり要求通りにはゆかなかった。夜は点呼まで色々雑事がある。寝るのは11時過ぎで1時には必ず起きなければならない。やや睡眠不足となったようだが初めての炊事で面白いと思った。炊事場の係は熊本県の人でよく世話してくれ、係将校へもよくとりなしてくれ、内地引き揚げ21年2月まで勤務した。
 或日夕方暗くなってから分隊のK池上等兵が「味付けになる何かあったら貰ってきてくれとM地上等兵に頼まれたが何かありますか」と言ってきた。日本軍醤油があったので持たせて帰した。
 翌朝、K池上等兵が「仏様にあげる団子か何か作って下さい」と来たので「誰か亡くなったのか」と訊き返した。「昨夕M地上等兵がフグを持ってきて、料理するのでN田班長の所から何か味付けを貰って来てくれと頼まれ醤油を渡しました。M地上等兵はジャングルで一人フグを煮つけて食べられ、その侭一人で死んで居られました」という。
 それはかわいそうなことをした。「T木伍長に料理を頼めば良かったのに」と言ったが後の祭りである。飯盒に湯を沸かしダンゴを作って差し上げた。誰かと相談して料理したら良かったのにと思った。
 2ヶ月後日本から氷川丸が迎えにきたのだ。(合掌)