20年5月下旬 大隊病因へ入院途中命拾い

 5月になって元気が出ない。小隊で身体が弱っている者、死亡した者を考え、N西軍曹、I田兵長、S田上等兵と名を挙げてみると、今度は小生の順番ではなかろうかと思われる。これは何とか考えて生き長らえるのが現在の状況下では大切なことだ。生きねばならぬと思う。
 小隊長に一ヶ月くらい大隊病院へ入院したいとお願いした。小隊長は「成程最近元気がないと思っていた。大隊病院は芋、野菜等あるから薬も貰っていれば直ぐ元気になるよ。早く帰ってきてくれ」と言う。翌日病院へ行く準備をし、分隊の者にも留守中火砲のことなどもお願いし愈々大隊病院へ行くことになった。
 大隊病院は前島より本島へ上陸、海岸を半里程南に行きそれより北の方へ1000米ダラダラ坂を登った標高約150米の山の峰にある。丁度海岸より北へ入った山の登り口に中隊機関の幕舎があり、四国より来た准尉が小隊長として居られると聞いたので、挨拶だけでもして、山に登りたいと立ち寄る。准尉は喜び「これはちょうど良かった。今日は豚もあるが魚も新しいのが獲れている。都合よく来てくれたのも何かの縁だ。今当番がいないので自分ひとりでいる。今晩ゆっくり泊まって栄養をつけ明朝山へ登ったらええがな」と言われたので昔話でもと思い「では今晩お願いします」と答える。久々に兵隊が作ってくれた豚、魚、芋の料理をたしなみながら夜遅く迄話は尽きなかった。
 人間の運命は本当に判らない。准尉の勧めで宿ったことが命拾いとなったのだ。翌朝7時頃大隊病院へ登るべく準備を整え、朝食をお世話になっていた時である。
 山の上、大隊病院の方角で小銃の音、手榴弾の炸裂する音が5分くらい続いて聞かれた。何事かと中隊機関の電話で尋ねるも、電線が切断されたと見え通じない。准尉も心配し「山の状況は中隊機関の兵を出して調べ善処するが、貴方は大隊病院の状況も判ってから登ったほうがよいよ」と言ってくれた。
 暫くして山の上より慌ただしく降りてきたというより逃げてきたと言ったほうが当てはまりそうに兵が駆け込んでくる。「今朝農園の朝の仕事が終わり兵が洗顔のため谷川へ降り洗顔中、土人にバッサリ蛮刀で首を切られ、又小銃を取り兵に発射、銃、手榴弾等持ち逃げされたようです。至急救援お願いします」と。
 中隊機関、山砲第一分隊、第三分隊武装し救援に登る。准尉は「今病院に行っても混雑してどうにもならないだろう。死傷者も多いようだから」と止めてくれるので、落ち着くまで登るのを控えていた。
 40名位の入院兵並びに大隊本部下士官兵等がやられたとのことである。(合掌)
 二日後各中隊より20名兵を集合討伐することとなる。一昨日まで日本軍農園に雑役として来ていた土人はタロキナ米豪軍の宣撫工作に惑わされ、日本軍兵器、日本軍兵士の殺戮を土産にタロキナへ順じたものと見られた。急遽討伐隊がだいたい本部で編成された。
「本日各中隊より兵を選抜、大隊として一昨日の不慮の死をなした戦友の弔い合戦を敢行する。皆もその意を了承し敵に面したら何ためらうことなくやってくれ、相手は白豚、黒豚だ。敵討ちして貰いたい。」とそのほか訓示あり。前山からはK池、U生両上等兵が選抜された。討伐隊の行き先には道路に色々工夫がなされ、地雷等敷設していた様である。東北出身のT条兵長はその地雷にかかり残念だと言ったが最後に息絶えんとする時「天皇陛下万才」と声をしぼりあげて叫び戦死した。本当に優秀な現役兵で、亡くなられたことにつきお悼み申し上げます。もし生を得て帰られたら地方でも有力な人物になられたと思います。

 内外の情況がが切迫してくると吾々兵にも亦将校にも心情の変化が生じてくる。前島より中隊本部へ行った兵が言う。現役初年兵で優秀と思われていた兵が、分隊の炊事場で手榴弾を胸に抱き自殺したと。
 又ある隊では将校集合の際、若い見習い士官出身の二人が意見合わず軍刀で一人が切りつけた。大隊長が直ぐ拳銃でその軍刀を下げた将校を射殺した。
 或いは米軍飛行機からの日本都市の爆撃写真。日本の国内で「早く戦争を止めて帰ってください」と着物もんぺに防空頭巾の女が焼け跡で呼びかけている写真等々の反戦工作のビラを拾ってくる。そのビラをジッと見つめている兵がいる。