ボーゲンビル島へ

ボーゲンビルのブインに上陸すると。留守隊ではドラム缶5本を並べ入浴場を作っている。中に消毒のためクレゾール液を入れてあり,傷,皮膚病のものは飛び上がるほどしみる。吾もその一人であった。
 ブインに暫く駐留後,大隊はキエタ地区警備の命を受ける。キエタはボーゲンビル島東海岸中程にある港で,戦時でなければ本当に素晴らしい海辺である。
 夜間大発に乗艇キエタに上陸。やがて夜が明け,見ると湾になっておりその入り口に前島という周囲7粁,標高80米程の島がある。湾内に桟橋があり椰子林の中に教会とその農園がある。亦湾内に更に入り江になっている一つの湾がある。その湾の出口に橋が架かっており,汐流の流れにより多彩な色をした魚が橋の下を流れに乗り泳いでゆく。湾には貝類も多いようだ。当初1ヶ月ほど湾の南西部の海岸にある小高い山(高さ約70米)に陣地を作る。猶今回の火砲は鹵獲(ろかく)山砲で,今までの41式より総てが大きく重量もある。6師団兵器係より操作を受けるが,試射してみないと安心出来ない。
 此処で18年10月下旬より20年7月まで暮らすことになるが,苦あれば楽あり楽あれば苦ありというが,吾々日本軍には楽は二度と廻ってこず苦の連続であった。
 食糧は薩摩芋。味付けは海岸でドラム缶に一杯海水を入れて食塩作りである。日中は敵機を警戒して煙を出さず夜も火の明かりを見つけられないよう,焼き続けて約一升である。副食には魚介類,椰子実,芋の蔓葉等を食し,時には土人(差別語?そのまま記しました)が以前飼育していた黒豚をジャングル内で捕獲し食膳を賑わすこともあった。煙草は土人と交換。海辺の者は山の者とそれぞれ必需品を物々交換しなければならない。軍も自活の指導に専ら努力しているが,内地よりの補給はこの頃全然無くなった。食事の材料は限られている。美味しく食べようと思えば,加工して食することがお互いに研究されてくる。例えば,芋ソバというのが有名になった。大根すり様のもので薩摩芋をこすり細長く出てきた芋を一日中晒して蒸し,ダシをかけて食べるもので,当時としては本当に美味しい料理だった。それを発明した兵は一階級進級したと聞く。
 しかし,栄養のバランスはとれず身体は痩せ腹だけが突き出る。兵隊の健康は悪化,益々衰弱し総ての動作に活気がなくなっていった。