昭和16年5月上旬 

中隊は仙尾警備に出陣。黄埔より船で一昼夜,仙尾に上陸する。歩兵一ケ大隊駐屯中である。街はすべて空き家で中国人どころか猫の子一匹いない廃墟である。敵は共産軍で地元中国人も殆ど抗日派である。山砲隊は仙尾の町南西4粁の小山に分哨を設置,警備につく。共産軍も嫌がらせか戦略的意図なのか,時々姿を現す。日本軍もそのお礼返しとして,討伐と称し陣地外へ出る。
 吾々山砲もいよいよ歩兵援護の為出陣決定。その準備中私はマラリアで熱発。40度の高熱に苦しんでいたが毛布にくるまり分隊長に出陣を願い出,やっとのことで員数外許可を得た。その時第2砲手は四国善通寺のA吹君で優秀な人だった。出発に際しては員数外なので,小隊の最後尾駄馬の後から遅れないようついていく。民家も所々に散在するが,日本軍来るで皆何処かへ隠れたものと思われ,人は一人も見あたらない。山峡いの畦道を行進中,歩兵の伝令が来た。「この先平地で畑であるが,その先に河が流れ,向こう岸は共産軍の本拠だ。警戒を要す。」突然その時Y崎小隊長大声。「敵前を横切り向こうの岡に砲列を敷く。今より60米位の間遮蔽なし。各自速く岡の麓木立の所迄前進する」「前進」という声より早く馬に一鞭駆けだした。全員その後を吾先にと追いかける。熱発後の私はどん尻で息切れ苦しいこと,やっとヨトヨトした足で皆の居る木立の所へ辿り着く。木の下で一息の後,隊長は「敵は東前方,砲列の位置右前方岡の上,前進」と言って岡の上に駆け上る。皆は敵がどの方向か判らない侭駆け上った。ヒュルヒュルと音が聞こえたと思った途端,目前でドカンと破裂した。20米位前である。隊長の「左に砲列」の一声で駄馬は敵方へ尻を向ける。砲手は馬に積んだ砲の革錠に飛びつき砲をおろし組み立てる。その時思わず叫んだ「分隊長二番にN田交替します」と。
 「よし,やれ」との返事で素早く眼鏡を砲に装着。「照準点前方河向こうに見える白い二階建,照準方向零高低なし,榴弾瞬発信管三発2500米続いて撃て」の命に3発撃ち終わり,白い二階建ての家を見ると窓から白煙が上がっている。命中である。やっと気分が落ち着き熱発はどこへ行ったのか,気分爽快となる。敵の迫撃砲一発きりなので,待機の姿勢をとる。
 ふと後方でパチパチと焼ける音,同時に女子どもの泣き声がする。振り返って部落を見ると,歩兵が藁束に火を付け民家に投げ込んでいる。
 今まで,姿を見せなかった女子ども等は,屋根裏に隠れていたらしく,瓦を突き破り屋根の上に這い上がり,地面に飛び降りて居る。亦前方畠を見ると,向こう岸に通じる一本道を一目散に駆けていく。歩兵は速射砲で,女子供達を河岸の中間へ撃ち込んでいる。河の方へ逃げていた女子供達は目前で炸裂する砲弾に驚き,亦此方へ向かって走ってくる。
 何の為の火付けなのか,射撃なのが真意がわからない。何故反抗もしない農民の家に火付けするのか。女子供達の前で砲弾を炸裂させるのか。帰路,歩兵下士官に質問したところ,「中国民に戦争の悲惨さを知らしめ,戦いを嫌わせる為だ。そして平和を願い,日本軍に従って来る様にするんだ。」との説明である。
 小生には歩兵の言う意味は解せなかった。益々日本軍を嫌い敵対感が増すばかりだ,とあれこれ考え乍ら歩いて居ると後ろから来た歩兵に注意を受けた。「行進が遅いですね。吾々は帰路敵が追撃してくるのを警戒して居る者ですが,山砲の貴男方が一番最後尾です。もう少し早く歩いて下さい。」と
 本日作戦味方被害なし。
 或日歩兵一個中隊が討伐に行った時敵の情報が入る。「共産軍が今晩学校に宿営する。その学校は周囲が高い土塀で,出入り口は校門だけだ。兵は70名くらい居る。」との由である。
 若い将校であったが,重機関銃軽機関銃を校門前,一個小隊を学校周囲に配し追撃砲を校内に撃ち込む。突然の砲撃に敵は驚きふためき,一カ所の出口校門に集中してきた。日本軍の機関銃の一斉射撃に敵は白旗を上げ投降する以外に手がなかった。捕虜43名。見事な戦果である。
 数日後3名屋内処刑。引き続き40名は砂浜辺で処刑となる。日本軍1名戦死者が出ると,その報いもひどいものであった。