「眠り姫問題」4人姫バージョン(実は眠らない)

■ 前記事の(追記2)の続き 

「眠り姫問題」の分かりやすいバージョン(追記あり) - shinzorの日記

の続きを考えていたら長くなったので新しい記事にしました。

 今のところの意見は「眠り姫問題」はあいまいな問題じゃないかなと思います。

 モンティホール問題でもあいまいな記述がされているものがあります。回答者が選ばなかった残り二つのドアのうち一つを開くと外れですが、外れのドアを選んで司会者が開いたのか、答えを知らずに開いたら外れだったのかで確率は変わります。

 

 このようなあいまいさをなくすために前の記事で分かりやすいバージョンを考えました。前の記事の追記を再掲します。

①1回の実験の後に箱から1枚を抜き出す。箱の中は1枚の赤札か2枚の青札かでそれぞれの確率は1/2なので、赤札を抜き出す確率の期待値は1/2

②多数の実験の後に、札が累積した箱から1枚を抜き出す。箱の中の赤札と青札の割合の期待値は1対2なので、赤札を抜き出すの確率の期待値は1/3。

 

 オリジナル眠り姫問題は、分かりやすいバージョンの①と②のどちらに対応しているのでしょうか。眠り姫が質問を受けるのは1回の実験の最中なので②ではなく、①であるようにも思えますが、①も実験の最中ではなく、実験後に札を抜き出す設定です。実験終了後に目覚まされた眠り姫が「実験は終わった、コインが表だった確率は?」と尋ねられた状況に対応しています。ではどちらでもないのでしょうか。

 

 確かに眠り姫は1回の実験の最中に目覚めて、確率を推定しますが、1回の出来事の確率というのはその出来事が多数行われた場合にその出来事が生じる回数の全体に対する比率です。眠り姫が推定しなければならないのは目覚めた今の状況で表である確率です。1回の実験で裏だった場合には青札は1枚ではなく2枚箱に入れられます。そして1回の目覚めは1枚の札に対応しています。眠り姫問題を②に対応していると考えていけない理由はありません。いけないのならば、1回だけの出来事の確率について別の定義をしなければなりません。

 

■ 4人眠り姫バージョン 

 そこで、4人の眠り姫バージョンを考えてみました。このバージョンの眠り姫は眠って記憶を失う必要がないので状況が現実的でモヤモヤ感がなくなります。

 

実験には4人の姫が参加し、実験開始後は以下のように進む。

実験の進め方はすべて4人の姫に説明する。

コインが表なら姫Aに尋ねる。コインが裏なら姫Cと姫Dに尋ねる。姫Bには尋ねない。もちろんコイン投げの結果も、姫A~Dのいずれかではあるかも教えない。

 

問1:実験開始前に4人に表が出る確率を尋ねる。

問2:実験開始後に表が出た確率を尋ねる。

          (尋ねるのは姫Aかあるいは姫Cと姫Dになる。)

問3:実験開始後にあなたは姫Aか姫Cであると教え、表が出た確率を尋ねる。

 


「眠り姫問題」の分かりやすいバージョン(追記あり)

  • 解決したみたい

眠り姫問題」なるものを最近知りました。ざっとネットで見ただけですがどうも未解決の難問らしいです。実際に私も混乱してしまいましたが数日考えていたら分かったような気がしてきました。未解決の問題を自分が解決出来る筈がないのでどこか勘違いしている可能性が高いですが、あまりにも自分自身の疑念がなくなったので説明します。間違いの指摘、歓迎します。

 

骨格は単純ですが、いろいろ混乱させる仕掛けがある問題だと思いました。問題は以下の通りです。三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』の記述です。(この本は読んでいませんけど。)

 

 日曜日に、ある実験が始められる。まず、あなたは眠らされる。そのあとフェアなコインが投げられ、表か裏かによって、次の二つの措置が選ばれる。

場合A:表が出た場合 - あなたは月曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、ずっと眠り続ける。

場合B:裏が出た場合 - あなたは月曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、火曜日に一度起こされ、インタビューされ、また眠らされ、ずっと眠り続ける。眠りは記憶を消すほど深いので、目覚めたとき月曜か火曜かはわからない。

いずれの場合もあなたは、実験の手続きについてはすべてわかっているものとする。目覚めたときに自分が月曜にいるか火曜にいるか、そしてコインは表だったのか裏だったのかがわからないだけである。

ちなみにコイン投げがなされるタイミングについては融通が利く。コイン投げは、あなたが最初に起こされる前でも、月曜にあなたが目覚めた後でも、問題の論理構造は変化しない。

さて、あなたへのインタビューは次のようなものである。

問1:「いまは日曜日、実験開始直前である。場合 A である確率は?」

問2:「さあ、あなたは目覚めた。場合 A である確率は?」

問3:「さあ、あなたは目覚めた。今は月曜日である。場合 A である確率は?」

このうち問2と問3が「眠り姫問題」である。

  

 直観的に、問2も問3も1/2だと思いました。しかし、簡単な計算をすれば分かりますが問2が1/2だと問3は2/3になってしまいます。また、問2が1/3だと、問3は1/2になり、それが正しいような気もしてきました。いろいろ考えていると1/3と1/2でフラフラと二転三転し混乱してしまいました。

 

 この種の問題では極端な例を考えるのがヒントになる場合があります。この問題では裏の場合、目覚めるのは2回ですが、これが100回だと考えてみました。それだと裏の確率が高そうな気がしてきました。更に極端に、表では目覚めないのなら、表の確率は明らかにゼロです。目覚めたという条件での表の確率を問われているにもかかわらず、最初の直観は、無条件(問1の場合)の確率に引きずられていたようです。

 

 この問題は、表がでて月曜日に目覚める確率はいくらかという問題と同じと解釈できます。この場合は、実験開始前に質問でも構いません。起こりうる事象は、①表が出て月曜に目覚める場合、②裏が出て月曜日に目覚める場合、③裏が出て火曜日に目覚める場合の3つです。そしてその可能性は総て同じはずです。何故なら、コインの表裏は同じ確率なので①と②は同じです。②が起こった場合は必ず③も起こり、①が起こった場合は起こりえませんから②と③も同じです。従って問2は、すべて同じ確率で1/3です。

 

 更に言い換えると、表が出て目覚める回数と裏が出て目覚める回数のどちらが多いかになります。当然前者1回、後者2回ですが、前述のようにこの3回の可能性は同等なので、目覚めた場合に表である確率は1/3になります。

 

  • 私が混乱した原因

 最初にこの問題を考えた時に混乱したのは、問2と問3は別の問題なのに、表月、裏月、裏火の確率は両問題で共通と考えてしまったためです。3つの事象の可能性は同等なので、その比率ならば1:1:1と両問題で共通です。問2は2日間でありうる3つの事象について考えているので、3つの確率の和が1となり、それぞれの確率は1/3になります。一方、問3は、月曜日の1日にありうる2つの事象について考えているので、2つの確率の和が1となり、それぞれの確率は1/2です。違って当然なのに同じにならないのは矛盾だと混乱してしまいました。

 

 少し補足しますと、裏月と裏火に目覚めるのは背反排反事象ではなく、裏が出れば必ず2回、目覚めますから、3つの事象の和は1にならないのではないかという疑問を持ちました。裏月と裏火は二つでワンセットの事象として考えないといけないのではないかと。しかし、それは裏の確率であり、結局のところ問1を考えていることになります。

 

 問2と問3で質問されているのは目覚めた時に表である可能性です。目覚めた時に月であり火でもあることはあり得ないので、背反排反事象です。目覚めた時に表であるのは月しかありませんが、裏であるのは月と火の2回の可能性があります。

 

 記憶が消えるというのが混乱を招く原因かもしれません。実は「表が出て目覚める回数と裏が出て目覚める回数のどちらが多いか」という言い換え問題では、この条件は不要です。ただし、曜日が分かると排除される事象があるので確率は変わります。実験前に質問すれば確率を尋ねる眠り姫問題と同じになります。

 

 それにしても、面白い問題だと思いました。自分が如何に思い違いをするかを痛感させてくれる問題です。(まだ、思い違いしているかもしれませんが)最初は、条件が不明確な問題ではないかと疑いました。記憶が消える薬などというガジェットが出てくるからです。また「人間原理」とも関わる哲学的問題ではないかと大げさに考えたりしました。でも関係なかったみたいです。

 

  • 分かりやすいバージョン

さらに納得感を得るために、分かり安いバージョンを考えてみました。

 

日曜日に、ある実験が始められる。フェアなコインが投げられ、表か裏かによって、次の二つの措置が選ばれる。

場合A:表が出た場合 -月曜日に赤いカードを月曜日箱に1枚入れる。

場合B:裏が出た場合 -月曜日に青いカードを月曜日箱に1枚入れ、さらに火曜日に青いカードを火曜日箱に1枚入れる。

水曜日に月曜日箱と火曜日箱のカードを混ぜて水曜日箱に入れる。

 

さて、あなたへのインタビューは次のようなものである。

問1:「いまは日曜日、実験開始直前である。場合 A である確率は?」

問2:「水曜日箱から1枚取り出した。赤いカードである確率は?」

問3:「月曜日箱から1枚取り出した。赤いカードである確率は?」

 

 

 このバージョンとオリジナルは違うと言われるかもしれません。特に、「問2と問3で「場合Aである確率」ではなく「赤いカードである確率」を質問されることです。これに本質的な違いがあるのでしょうか。私はそうではないと思います。むしろ、オリジナル問題の方が、問1と問2、3の違いを分かりにくくしているのだとおもいます。

 

 そこで、オリジナルと分かりやすいバージョンを合体してみます。基本はオリジナルの実験を行います。あなたが受けるインタビューもオリジナルと同じです。ただし、あなたに分からないように実験者が箱にカードを入れます。つまり、記録を残すわけです。このバージョンの良い所は答え合わせができることです。あなたは確率問題が得意ではないのでインタビューに完璧に答えることはできないかもしれませんが、繰り返し実験を行い、箱にカードが十分に溜まった頃合いに枚数を数えれば確認できます。

 

(追記)

遅読猫さんから誤字のご指摘があり修正しました。 
 (追記2)03/13

 1日も経ちませんが、分かりやすいバージョンには二つのパターンがあって、オリジナルバージョンがそのどちらに対応しているかはっきりしないことに気づきました。

①1回の実験の後に箱から1枚を抜き出す。箱の中は1枚の赤札か2枚の青札かでそれぞれの確率は1/2なので、赤札を抜き出す確率の期待値は1/2

②多数の実験の後に、札が累積した箱から1枚を抜き出す。箱の中の赤札と青札の割合の期待値は1対2なので、赤札を抜き出すの確率の期待値は1/3。

 

箱の中は確定しておらず、箱から抜き出した1枚が赤札である確率も確定していないので、「確率」ではなく「確率の期待値」と書きました。

 眠り姫問題は①なのか②なのか、はっきりしないあいまいな問題という気がしてきました。スッキリ度が減少しました。

  

 

氏名―夫婦別姓でも同姓でも好きにすればいい

 夫婦別姓が一部で話題になっているので、少し調べてみました。

 

 歴史的経緯を含めて簡潔にまとめた資料を官邸が作っていました。「第8回 皇室典範に関する有識者会議」の資料4です。

 それによると、歴史的には、「姓」は公職を表すもので、個人を表す「実名」と組み合されて用いられていました。後に私的な「名字(苗字)」が発生しましたが、明治の始めまで公的には「姓+実名」が使われていたそうです。明治4年に公文書の「姓尸(姓)」が廃止され「苗字+実名」になり、明治8年の「平民苗字必称令」で国民すべてが苗字を称することになりました。ここでいう「実名」とは偽名の対語ではなく、個人を表す呼称という意味ではないかと思います。

  その後、戸籍法の改正などあり、現行の戸籍法の「姓(氏)」は、夫婦とその子という単位に付けられた名称になりました。当然、一単位には一名称なので、夫婦とその子は同じ「姓(氏)」になります。個人の区別は「名」でします。

 ちなみに明治民法では「戸主」を筆頭とする「家」を単位としていましたが、「家」の定義がどうも不明確です。「戸主」に強大な権限があり、血縁とは無関係に戸主が決められたように思えます。意外にも、現行の「夫婦とその子」のほうが血縁的です。

  歴史的にはいろいろありますが、現行戸籍法には夫婦同姓論者が言うような「家族の一体感」云々を匂わせる記述はありません。そもそも戸籍法には法の目的は書かれておらず、次のような戸籍の形式的、事務的な規定があるだけです。戸籍の整理の単位が夫婦とその子なので、同じ「姓(氏)」となっているだけじゃないかと思います。

・一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに編製される。(第6条)

・一つの戸籍の構成員は、戸籍の筆頭者と同じ「氏」を称する。(第6条)

・戸籍の氏名の記載巡は、①夫か妻 ②配偶者 ③子(出生順)(第14条)

 

 筆頭者とは戸籍の最初に記載された者で、その氏名と本籍で戸籍を表示します。面白いと思うのは、戸籍を表示する筆頭者の氏名は、亡くなっても残る(第9条)ことです。戸籍は子が結婚した時か子が子を設けた時に新しく作られ、構成員が全員存在しなくなるまで当初の筆頭者の生死にかかわらずその氏名で表示され続けます。

  さて、夫婦別姓のように家族という単位に複数の名称があると混乱しますが、他の家族と同じ名称でも混乱します。他と区別し、大げさに言えば「家族の一体感」のようなアイデンティティを示すのなら、唯一無二の名称でなければなりません。ところが同姓はありふれていて他の家族との区別という事務機能上も、家族のアイデンティティという精神的な面でも全く不十分です。

  歴史的な公職を表す姓は、その機能を果たしていました。一方、現在の「氏名」は実質的には個人を表しているだけで、所属集団を表す機能は殆どありません。ならば、戸籍も個人単位で整理しても良いと思いますが、ある程度のまとまりがあった方が整理に便利なので夫婦とその子という単位を採用しているだけかもしれません。

  その程度の意味しかない「姓(氏)」に対して、夫婦同姓論者にしても選択別姓論者にしても、思い入れがあり過ぎるように私は感じます。同姓論者は夫婦の一体感のようなもの、別姓論者は親からもらった姓への愛着のようなものです。その種の愛着は尊重されるべきですが、別に法で定める必要は無いでしょう。気持ちの問題ですから。

  現実には、戸籍の名称とは別の呼称を使っている場合は多くあります。気持ちの問題の場合もあれば、仕事の都合上の場合もあります。分かり安いのは芸名です。芸名にも様々なレベルがあって、同じ芸人が、場合によって、ユニット名を付けて呼ばれたり、個人名だけで呼ばれたりします。(「ココリコ田中」と「田中」)このような使い分けは状況に応じて行われ、戸籍名には制約されないことは言うまでも有りません。また、明治以前は屋号が使われていましたし、現在でも私的に「八百屋のケンちゃん」と読んだりします。また、仕事では役職を付ける場合がまだ多いです。

  私の父は、戸籍上は母方の姓になっていましたが、結婚前の姓で皆から呼ばれていました。その方が、商売上都合がよかったからだと思いますし、それで何か支障があったわけでもありません。皆が知っていて都合の良い通称を使うのに法的な根拠など一切必要ありません。

  とはいえ、芸名以外の通称の使用を職場が認めないことがまだあります。税金や社会保険、給与の振込みといった手続きには、戸籍上の名前が必要なので面倒だという理由のようです。でも、法的な制限は何も無いのに、面倒だという理由だけで通称使用を認めないのは過剰な制限だと思いますし、現在のICTでは簡単に処理できるんじゃないでしょうか。このような社会的制限の撤廃の必要性は感じますが、法改正の必要性は感じません。国会ではもっと大事な議論すればよいと思います。

気遣い

コロナ、コロナで鬱陶しいので鬱陶しいぐらい面倒くさい話を書いてみました。

 

togetter.com

 

 このtogetterのコメントの事例は、恐ろしいことにほぼすべて夫の無神経さへの不満です。これをバカにしてはいけません。つい先日もTVのバラエティを見ていたら、夫の無神経な態度に我慢の限界に達した妻が5年間口をきかなかったという恐怖譚の再現ドラマをやってました。実話かどうか知りませんがありえないことではないと思います。この夫婦は幸いにして仲直りしたそうですが、そうならない例も多いでしょう。

 

 はい、気遣いは大事です。Togetterの話に戻ると、「コーヒー飲む?」と聞かれた時に「いや、いい」と答えるのはアウトで、「今はいいや、ありがとう」と「ありがとう」の一言を添える気遣いが重要なのだそうです。おろそかにすると離婚の可能性が高くなります。確かにそういう気遣いは大事です。

 

 ただ、どこか引っかかるところがあります。夫(男)と妻(女)では考え方や物事の受け取り方が違います。だから相手の気持ちを察して「ありがとう」と一言添える配慮が気遣いというものです。妻(女)はちゃんと言葉に表すことが重要だと考えているのです。一方、夫(男)は、無神経で、「一々そんなこと言えるか、感謝の気持ちはあるのだから、それくらい察してくれ」と思うわけです。

 

 あれ、夫(男)と妻(女)では考え方が違うと思っていたけど、どちらも「言外の気持ちを察してくれ」というところは同じではありませんか。ではどこが違うのか。「相手の気持ちを察する気遣いは大事だ」までは同じです。違うのは察した後で行動に表すかどうかです。感謝の気持ちは言葉にしないといけません。「感謝の気持ちがあることぐらい察してくれよ、それが考え方や感覚の違う相手に対する気遣いだろう」という夫(男)の言い分は通じません。気遣いでは相手の気持ちを察するだけでは不足で、相手が喜ぶ行動をして完成します。

 

 しかし、行動すればよいというほど簡単な問題ではないのです。多くの夫(男)がそうであるように、相手の気持ちを察するのが苦手ならどうすればいいのでしょうか。相手の喜ぶ行為が分からなければ行動できませんからね。ここで安易に「分からなければ尋ねればよい」と考えるのは最悪です。「そんなことも分からないの。この鈍感野郎」となってしまいます。阿吽の呼吸というか読心術のような高度な能力が必要なのです。

 

 では、高度な能力を身に着けるにはどうすればよいかが次の問題になります。残念ながら王道はありません。「わび・さび」の精神を外国人に説明するのは簡単ではありません。一朝一夕に分かるものではなく、年月をかけて身に着けていくものです。そう、これは文化です。気遣いとは文化です。文化には背景がありそれを理解するには時間がかかるものです。

 

 なぜ時間がかかるのか。それは非合理的だからです。統一理論でズバッと割り切れません。矛盾する事例が絶え間なく勃発します。一つ一つ覚えるしかありません。文化というと高尚な趣がありますが、まあ簡単に言えば習慣です。

 

 非合理的だろうとなんだろうと習慣は無視できません。郷にいては郷に従えというではありませんか。そういうものです。面倒臭いし鬱陶しい。

 

 ところで、ふと思ったのですが、元NHKアナウンサーの鈴木健二さんはお元気なのでしょうか。兄の鈴木清順さんは2017年にお亡くなりになりました。ツィゴイネルワイゼンは映画館で観ました。怖くない怪談話でした。

■ 丸木舟を作る理由 所さんの目がテン!

 今日、先週に引き続き、科学番組「所さんの目がテン!」の「人類はこう作った丸木舟 (2)」を見ました。完成した丸木舟で西湖横断するシーンでは転覆するかと思いましたが、無事成功しましたね。元宮大工の方の指導で石斧などの縄文時代の技術だけで造るという企画でしたが、縄文時代の技術よりも、鉄器のありがたさを実感したというのが感想です。

 

 陶芸、製紙、織物などの古い伝統技術を取り上げその素晴らしさを伝える番組はよくありますが、縄文時代ともなると、むしろ現代の技術のすばらしさを感じさせます。目がテンの一味違うところですね。

 

 見ているときは見過ごしていましたが、後で完全な縄文時代技術の再現ではないことに気づきました。丸太から余分な部分を取り除く時に木目に沿って木の楔を打ち込み、一気に引きはがす工程がありました。この工程自体は縄文時代からあったのかもしれませんが、使っていた楔がきれいな形状でした。明らかに鋸を使っていますね。

 

 余談ですが、大学の建築歴史で鋸で造る挽板は案外新しい技術だと教わりました。古い寺社建築の扉は厚く、丸太に楔を打ち込んで割裂いた板を用いています。後に鋸で薄い板を作る技術が開発され枠組みに板を張り付ける框戸になります。

 

 それだけではありません。番組では、大木を切り倒す時に安全のため設けた足場には板が用いられていました。角材は製材所で製材したものです。最後の仕上げで表面を焦がすための火は多分文明の利器であるライターで着火しているでしょう。その他、ロープなどの副資材も現代技術なしには不可能なものばかりです。

 

 コンティキ号や沖縄ー台湾横断の草舟のように古代技術の学術的な再現のデモが行われることがありますが、そこでも現代技術は多少なりとも使われています。安全上の要請もあるので、学術的な証明への影響が少なければよいわけです。(実際には少ないとは思えないこともある)しかし目がテンは科学番組とはいえ学術的な証明をしたかったのではないでしょう。

 

 では、何が目的なのでしょう。もちろんテレビショーですからエンタメが一番の目的ですが、そこは科学番組なのでそれ以外の目的も欲しいです。と言うことで私の個人的希望で、以下勝手な推測をします。

 

 先ず思いつくのが、よくある現代科学技術批判の文脈です。「自然との共生」のようなことを言って、縄文文化をノスタルジックに賛美するというものです。しかし、古代の技術も自然と対峙する人工的な技術ですからそういう理由ではありません。縄文技術は現代技術より自然に近いだけで、五十歩百歩です。自然派には人気かもしれませんが却下です。

 

 次に、環境問題、省資源の文脈はどうでしょうか。しかし、丸木舟は板で作った現代的な舟よりはるかに木材資源の無駄遣いですから、これも違います。省資源と言う場合、石油の節約ばかり言われますが、木材も貴重な資源で、歴史的には木材資源枯渇で滅んだ文明(文化)もあります。環境に良いと木材を浪費したがる人がいますが、環境よりも林業振興の問題だったりしますからね。

 

 いささか性急で検討が不十分ですが、私の仮説は、「丸木舟作りはゲームである」です。サバイバルゲームやスポーツのサッカーなどと同じゲームです。サバイバルゲームは戦争や人殺しをしたいのではなく、ルールという制約を守っていかに勝つかを競うもので、それが面白いから行います。そうであるのは、実際に人を撃ち殺したりしないことから明らかです。サッカーも手を使わないことに重大な意味があるわけではないのは明白でしょう。ゴールキーパーは手を使いますし、スローインでは手を使います。手を使うゲームにはラグビーがありますが、できる人が体格的にかなり限られてきます。同じ場所で体の接触のあるゲームで手を使わないという制約ルールは、安全と面白さのバランス上絶妙です。サッカーの競技人口と観客人工が多いのには理由があるような気がします。

 

 そして、丸木舟作りゲームの鋸不使用という制約ルールも見ている視聴者にとって面白いのです。(選手にとっては少々厳しいので、サッカーよりラグビーに近いかも)とはいえあまり厳格に楔も石斧で造ると番組として時間がかかりすぎますし、足場の板も使わないと安全面でNGになります。そこでサッカーのキーパーやスローインと同じように、そこは例外とするわけです。

 

 このように書いてしまうと、視聴率至上主義を批判しているように受け取られる恐れがありますが、そういう意図はありません。それどころか科学番組として冒頭に述べたようにエンタメでありながら、昔は昔ですごいし、現代は現代ですばらしいと実感できる良い番組になっていると思いました。

学校文法の犠牲者

はこの なかに あめが 4こ はいっています。

こ たべると はこのなかは 1こに なりました。

   ツイッターで見た算数の問題です。「はこのなか」は不正解で,正解は「のこり」という採点がされたことで話題になりました。こういう非常識な採点でも

「はこのなか」は主語が「あめ」ではないからはっきりと間違いやね。「はこのなかのあめ」で×になってたら教師がおかしいけど。

と支持する人もいます。

  相当の石頭だと思いますが,私も一歩間違えば同様の主張をした可能性があります。なぜなら,助詞が付くのは主語と学校で教わって,大人になるまで疑いもしなかったからです。

 私は言語学者ではありませんが日本語を母国語として話し,が付いても主語ではない文を話しますし,さらに,を状況に応じて使い分けています。自己紹介するとき「私はshinzorです。」とは言いますが,「私がshinzorです。」とは言いません。そんな言い方は「名の知れたshinzorとは,この私である。」という意味合いを帯び,傲岸不遜です。また,九州出張から戻り,同僚から「天気はどうだった?」と尋ねられたら「長崎は雨だった。」と答えます。しかし,「天気が悪かったのはどこだった?」なら「長崎が雨だった。」と言います。この違いについて「学校文法」は一切,教えてくれませんでした。

 学校を卒業してから日本語の解説書をいくつか読んで学校文法に不備があることを知ったのですが,その中にあって小池清治氏の「日本語はどんな言語か」は納得のいくものでした。以下にその中の「題説構文と叙述構文」についての要旨をまとめ,それについて感じるところやよく理解できない点を述べてみます。それを踏まえ冒頭の「はこのなか」問題についての感想を最後に述べます。

 

■「日本語はどんな言語か」の題説構文と叙述構文についての要旨

 日本語には,題説構文と叙述構文がある。題説構文は文の話題を提示する題目部と話題に対する解説的叙述を述べる解説部の二部によって構成される。題目部は係助詞ハによって提示されることを原則とする。話し手の判断,見解を示すものである。これに対して叙述構文は話し手の主観的判断ではなく客観的事象として叙述するもので,叙部と述部から構成される。叙部には格助詞ガで示される主語が含まれることがあるが必須ではなく補足部と言われる。文の核となるのは述部の用言である。従って「桜は 吉野が 名所です。」というような名詞文は存在しない。「桜は 吉野が 名所です。」は題説構文である。

 

■よく理解できない微妙なところ

 例えば,目前の桜を見て「桜がきれいだ。」と言えば叙述文です。今現在のこの場所で見ている桜について「きれい」という事実を淡々と述べています。一方,桜一般について話者の見解を述べる「桜はきれいだ」は題説構文です。「桜がどういうものかと言えば,きれいなものだ。」という意味になります。とりあえずはそういう説明です。

 ところがややこしいことに,文脈やイントネーションによって「桜がきれいだ」が題説構文の場合もあります。どんな花がきれいなのかについて話している場面で「桜がきれいだ」と言えば「花は 桜は きれいだ」の二つある題目のうちの「桜は」を強調した題説構文になります。一般的な桜について話者の見解を述べているからです。この場合のガは格助詞ではなく強調の副助詞となるそうです。

 また「桜は散った。」は「桜が散った。」という叙述構文の強調と解釈できるそうです。一般的な桜について述べているのではないからです。さらに,「桜は咲く,花は開く。」という文脈なら,一般に「桜」というものは「咲く」という表現がふさわしいものだという題説構文というのですから実に微妙です。このあたりは英語の定冠詞theと不定冠詞aの微妙な違いに似ています。説明は難しいが母国語の人には明白に違いがわかる暗黙知の一種です。実のところ,私も違いは感じるけど,説明は十分にできません。

 ところで,ハとガの違いについては,ハは既出,既情報を表し,ガは新しい情報を示すという説明もあります。例えば前に述べた挨拶の「私はshinzor です。」の「私」は既に対面しているので既情報であり,「shinzor です」は新しい情報という説明です。これが「私がshinzorです」となると,「あなたも名前を聞いたことがあるshinzorとは,私のことです。」という意味合いなので「私」が新情報です。

 しかし,スッキリしない点もあります。前述のとおりハやガは文脈で題説構文にも叙述構文にもなります。だとすると,ハやガは文脈で既情報にも新情報にもなりそうです。例えば,さきほど題説構文の強調である「私がshinzor です。」の「私が」は新情報であると言いましたが題目の強調であるので既情報という気もします。

 

 ■「はこのなか」問題の感想

 文法の素人の私がスッキリと整理して説明できないのは当然ですが,だからといって私が話している日本語が間違いであることにはなりません。先に存在するのは日本人が話している日本語で,後からそれを説明する文法が作られたのです。文法が上手く説明できないのは文法がまだ完全ではないからであって,話されている日本語が間違っているからではありません。物理理論が現実の現象をうまく説明できないならば理論が不完全なのです。現実の現象が間違っているというと気が狂ったと思われます。

 冒頭の「はこのなかは」を主語と考え間違いとするのは不完全な学校文法を過信する過ちを犯しているわけです。学校文法には弊害が多いといえます。とはいえ,学校文法に従い「はこのなかは」を主語と考えても,冒頭の問題の回答を間違いとする人は稀でしょう。「はこのなかのあめは」の「あめ」が省略されたと考えればよいだけですからね。学校文法のもとになった大槻文法の大槻文彦は次のように書いているそうです。

既にして,略語を種々に補ふことを考へて,端緒を得て

 学校文法は,主語を必須とする英文法の枠組みで構築されているため,主語がないのが普通の日本語に当てはめるには,省略されたと考えるしかないことは,創始者も自覚していたのです。

紫は虹にない?

 「ヒトの目、脅威の進化」(マーク・チャンギ―・ジー)を読みました。知らなかったことがいろいろ書いてあって少し賢くなったと勘違いしましたよ。まだ全部読んでいないのですが、ひとつ気になったことがあったので、取り急ぎ記事にしてみました。

 この本には「虹には色はない」と書いてあります。しかし虹は赤・橙・黄・緑・青・の7色と子供の頃に教わりました。その外側には赤外線と外線があるとも言われますので色はないと言われると疑問符が頭上にポップアップします。ただ情けないことに、私はじっくりと虹を見たことはないので「この嘘つきめ」と断じることもできません。

 この本には、赤・橙・黄・緑・青・が虹に見られる波長の違いによる色で、と赤の波長の光を同時に受けた時に人間が感じる色と説明してあります。だから、波長の長さで一直線に並べたスペクトル上にははなく、虹の色も波長の順序で並んでいるのではないというわけです。一方、人間が感じる色を円環上に並べた場合は赤との間をつなぐためにがありますが、これは単一の波長の色ではないという説明です。

 説明自体に変なところはありませんが、まだモヤモヤするので、他の虹の説明を検索してみると、赤紫は赤との混じったもので虹にはないと説明したものがありました。色を赤、緑、青の原色の比率で平面状に表したCIExy色度図というものがありますが、この図はスペクトル軌跡と純軌跡の曲線で囲まれています。スペクトル軌跡上の色は単一の波長の色で純軌跡上と曲線の内側の色はいろいろな波長の光が混合した色です。純軌跡上の色が赤紫(あるいは)になります。

 

 

polyhedra.cocolog-nifty.com

 

 説明の内容は全く同じで、ただ純軌跡上の色をと呼ぶのか、赤紫と呼ぶのかの違いだけのことですね。赤紫の違いは結構微妙ですので、多分「ヒトの目、脅威の進化」でいう「」は日本では「赤紫」なのではないかという気がします。英語ではインディゴバイオレットパープルですが、この対応も微妙なので翻訳の問題なのかもしれません。

 要するに色覚という感覚的なものの命名には結構なブレがあるということだと思いますただ、一応日本では虹にはあるとするのが一般的なので、虹にないのはではなく赤紫と言っておくのが穏当かもしれません。

 さて、ここからが問題なのですが、虹の写真(?)をいろいろ見ているとどうも赤紫らしきものがはっきり写っているのもあるのです。一方で菫色で終わっているものもあり、この両者は見た目が全然違います。これはどういうことなんでしょうね。プリズムで分光した写真(?)も同様です。どうも写真のように見えてイラストと合成しているようにも見えます(はっきり「イメージです」と断っているものもある)。私みたいに本物をよく見たことがないイラストレーターが思い込みで書いているんでしょうかね?

  magazine.his-j.com

 

 

s.n-kishou.co.jp