学校文法の犠牲者

はこの なかに あめが 4こ はいっています。

こ たべると はこのなかは 1こに なりました。

   ツイッターで見た算数の問題です。「はこのなか」は不正解で,正解は「のこり」という採点がされたことで話題になりました。こういう非常識な採点でも

「はこのなか」は主語が「あめ」ではないからはっきりと間違いやね。「はこのなかのあめ」で×になってたら教師がおかしいけど。

と支持する人もいます。

  相当の石頭だと思いますが,私も一歩間違えば同様の主張をした可能性があります。なぜなら,助詞が付くのは主語と学校で教わって,大人になるまで疑いもしなかったからです。

 私は言語学者ではありませんが日本語を母国語として話し,が付いても主語ではない文を話しますし,さらに,を状況に応じて使い分けています。自己紹介するとき「私はshinzorです。」とは言いますが,「私がshinzorです。」とは言いません。そんな言い方は「名の知れたshinzorとは,この私である。」という意味合いを帯び,傲岸不遜です。また,九州出張から戻り,同僚から「天気はどうだった?」と尋ねられたら「長崎は雨だった。」と答えます。しかし,「天気が悪かったのはどこだった?」なら「長崎が雨だった。」と言います。この違いについて「学校文法」は一切,教えてくれませんでした。

 学校を卒業してから日本語の解説書をいくつか読んで学校文法に不備があることを知ったのですが,その中にあって小池清治氏の「日本語はどんな言語か」は納得のいくものでした。以下にその中の「題説構文と叙述構文」についての要旨をまとめ,それについて感じるところやよく理解できない点を述べてみます。それを踏まえ冒頭の「はこのなか」問題についての感想を最後に述べます。

 

■「日本語はどんな言語か」の題説構文と叙述構文についての要旨

 日本語には,題説構文と叙述構文がある。題説構文は文の話題を提示する題目部と話題に対する解説的叙述を述べる解説部の二部によって構成される。題目部は係助詞ハによって提示されることを原則とする。話し手の判断,見解を示すものである。これに対して叙述構文は話し手の主観的判断ではなく客観的事象として叙述するもので,叙部と述部から構成される。叙部には格助詞ガで示される主語が含まれることがあるが必須ではなく補足部と言われる。文の核となるのは述部の用言である。従って「桜は 吉野が 名所です。」というような名詞文は存在しない。「桜は 吉野が 名所です。」は題説構文である。

 

■よく理解できない微妙なところ

 例えば,目前の桜を見て「桜がきれいだ。」と言えば叙述文です。今現在のこの場所で見ている桜について「きれい」という事実を淡々と述べています。一方,桜一般について話者の見解を述べる「桜はきれいだ」は題説構文です。「桜がどういうものかと言えば,きれいなものだ。」という意味になります。とりあえずはそういう説明です。

 ところがややこしいことに,文脈やイントネーションによって「桜がきれいだ」が題説構文の場合もあります。どんな花がきれいなのかについて話している場面で「桜がきれいだ」と言えば「花は 桜は きれいだ」の二つある題目のうちの「桜は」を強調した題説構文になります。一般的な桜について話者の見解を述べているからです。この場合のガは格助詞ではなく強調の副助詞となるそうです。

 また「桜は散った。」は「桜が散った。」という叙述構文の強調と解釈できるそうです。一般的な桜について述べているのではないからです。さらに,「桜は咲く,花は開く。」という文脈なら,一般に「桜」というものは「咲く」という表現がふさわしいものだという題説構文というのですから実に微妙です。このあたりは英語の定冠詞theと不定冠詞aの微妙な違いに似ています。説明は難しいが母国語の人には明白に違いがわかる暗黙知の一種です。実のところ,私も違いは感じるけど,説明は十分にできません。

 ところで,ハとガの違いについては,ハは既出,既情報を表し,ガは新しい情報を示すという説明もあります。例えば前に述べた挨拶の「私はshinzor です。」の「私」は既に対面しているので既情報であり,「shinzor です」は新しい情報という説明です。これが「私がshinzorです」となると,「あなたも名前を聞いたことがあるshinzorとは,私のことです。」という意味合いなので「私」が新情報です。

 しかし,スッキリしない点もあります。前述のとおりハやガは文脈で題説構文にも叙述構文にもなります。だとすると,ハやガは文脈で既情報にも新情報にもなりそうです。例えば,さきほど題説構文の強調である「私がshinzor です。」の「私が」は新情報であると言いましたが題目の強調であるので既情報という気もします。

 

 ■「はこのなか」問題の感想

 文法の素人の私がスッキリと整理して説明できないのは当然ですが,だからといって私が話している日本語が間違いであることにはなりません。先に存在するのは日本人が話している日本語で,後からそれを説明する文法が作られたのです。文法が上手く説明できないのは文法がまだ完全ではないからであって,話されている日本語が間違っているからではありません。物理理論が現実の現象をうまく説明できないならば理論が不完全なのです。現実の現象が間違っているというと気が狂ったと思われます。

 冒頭の「はこのなかは」を主語と考え間違いとするのは不完全な学校文法を過信する過ちを犯しているわけです。学校文法には弊害が多いといえます。とはいえ,学校文法に従い「はこのなかは」を主語と考えても,冒頭の問題の回答を間違いとする人は稀でしょう。「はこのなかのあめは」の「あめ」が省略されたと考えればよいだけですからね。学校文法のもとになった大槻文法の大槻文彦は次のように書いているそうです。

既にして,略語を種々に補ふことを考へて,端緒を得て

 学校文法は,主語を必須とする英文法の枠組みで構築されているため,主語がないのが普通の日本語に当てはめるには,省略されたと考えるしかないことは,創始者も自覚していたのです。