映像表現の自由 小宮 友根氏の論説について

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  リンクは、赤十字献血ポスター「炎上」に関する考察の一つです。その批判を書き出したら、結構長文になったので、結論を先に書きます。この考察は、現実とフィクションを混同していると思います。しかも、意識的にやっている疑惑があります。その結果、外形的な「表現技術」を問題視しています。例えば「恥じらいや戸惑いの表情もNG」と結構凄いことを言い放っています。以下、詳細に見ていきます。

 

 ■表象は「誰かが作る」もの 

 この最初のパートで、小宮 友根氏は次のように述べています。

ポイントは、表象は必ず「誰かが作る」ものだという当たり前のことです。この当たり前のことを踏まえると、「表象/現実」という区別を離れて、表象を作るという現実の行為について考えることができます。女性表象は――なにしろ女性の表象として作られるのですか――多かれ少なかれ「女性とはこういうものである」という、私たちの社会にある考え(女性観)をもとに作られるものです。

(中略)

つまり、家事育児を女性ばかりがしているような表象を作ることは、「ケア役割の担い手」という女性観を前提におこなわれる、数ある現実の行為のうちのひとつなのです。

  ここでは、小宮 友根氏は、「表象」という表現行為と、「表象」に表現されている行為を実際に行うことの違いを自覚していて「表象/現実」と区別をしています。子供でも分かるようなことですからね。ところがその直後に、表現行為も「現実の行為のひとつ」と言い、同じものであるとミスリーディングし始めます。

この言い回しは、「サルは動物であり、人間も動物である。従ってサルと人間は同じである」論法並みの粗雑な詭弁です。この詭弁を用いて、この後に続く部分で「サルは畑を荒らすので駆逐すべきだ。サルと人間は同じ動物なので人間も駆逐すべきだ」に近いことを言い始めます。

 

■「累積的な抑圧経験」

 このパートは不明確でぼけた記述で、何を言いたいのかよくわかりません。そこをあえて解釈すると、繰り返し差別されれば深く傷つく、という当たり前のことに「累積的な抑圧経験」と命名しただけです。現実に差別して傷つけるのは悪いに決まっていますが、そこから何の説明もなく、「表象の「悪さ」」と、NGな表現に飛躍します。

 出っ歯、短足、眼鏡のステレオタイプの日本人のイラストは不快ですし、自尊心を傷つけられます。しかし、それを禁止することには疑問があります。映像表現の裏の意図などと言うものは推測でしかないからです。悪意の感じられる表現、当てこすり表現、嫌みな表現というのは礼儀に反しますが、禁止できるような性質のものではありません。ヘイトスピーチなどを規制するため人種差別撤廃基本法案が提出されていますが、恣意的な運用の恐れがあるため成立していません。言葉によるヘイトスピーチはまだしも意図が読み取れますが、映像表現から意図を読み取るのは鑑賞の範囲にとどめておくべきです。

 案の定、小宮 友根氏は、この後で恣意的な意図の読み取りをします。

 

■「エロい」ことが問題なのではない

 このパートと次のパートで「すり替え」が行わていると私は思います。先ず、「エロい」ことが問題ではない、と当然のことを述べています。「エロい」とは性的なことで、これを否定するわけにはいきませんからね。そこで、フェミニスト哲学者という人の言説を引用して問題となる7つの要素を述べています。人間を道具として扱う「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」の七つです。

 繰り返しになりますが、現実に人間を道具として扱うのは許されませんが、表現としては十分ありえます。例えば「異常性欲」を扱った文学は、異常性欲がない人も興奮しながら読んだ経験はあるでしょう。なぜ興奮するんでしょうか興味深いですが、テーマから外れるのでこれまでにしまう。もちろん、これらはゾーニングなどの配慮は必要でしょう。

 

■性的客体化の表現技法

 いよいよ、このパートからが本題です。「異常性欲」を扱ったイラストを献血ポスターに使用するのは流石に広い賛同は得られません。しかし、巨乳のイラストには何の問題もないと思いますが、問題があるという牽強付会の理由付けがここから始まります。

 まず、「女性のみを性的客体として意味づけるような描写がそこにあれば、その表象は差別的だと感じられるかもしれません。」と相当乱暴なことを言っちゃってます。主に男性が見ることを意図した場合、女性のみを性的客体として表現するのは当然ですね。男性も性的客体として並置したら一部の男性を除き、男性はゲンナリします。

 この「客体」とは、道具的、非自律的なものという意味のようですが、男は(多分女も)エロ映像のようなまさに道具であり、非自律的なものに性欲を感じてしまう単純で馬鹿な生き物です。だからと言って生身の女性(あるいは男性)を道具的、非自律的と思っているわけじゃありませんからね。 

 この後、列挙する5つの表現技法を使えば、現実の女性にも「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」なる性質があると差別的思想に染まっているというこじつけが列挙されます。

(1) 性的部位への焦点化

 性的部位(胸や尻など)を強調し、そこに目が行くように女性を表象する手法は、性的な客体(道具的・非自律的etc.)としての女性という考えが前提にあるそうです。私は胸の大きな女性がいると思わず胸に目が行き嬉しくなりますが、その女性を道具だとも、非自律的だとも思いませんよ。

(2) 理由のない露出

  この表現手法については、「女性は性的な客体(道具的・非自律的etc.)」として扱う7要素のどれに当たるかの説明もありません。理由のない露出は性的な鑑賞のために女性を使っているから悪いそうです。もちろんイラストを見るのは性的な鑑賞のためですが、現実の女性を道具と思わないのは(1)と同じです。ゾーニング規制を除き、性的な理由で露出してはいけないという法律も倫理もありません。宗教にはあるかもしれません。

(3) 性的なメタファー

 だんだんと妄想めいてきます。直接的性的表現だけでなく、連想させるものはダメだそうです。ピアノの足が猥褻だと靴下をはかせた(これは事実ではないらしいですが)ヴィクトリア朝に逆行しています。恣意的な解釈がエスカレートする危険な兆候です。

(4) 意図しない/望まない性的接近のエロティック化

  意図しない性的接近を女性がそれほど嫌がっていないような表現もダメだそうです。騒ぎになった献血ポスターにはそんな要素はありませんでしたが、確かに、世の中には結構存在します。それは男性のご都合主義的な妄想を描いていますが、それだけです。現実と妄想を混同するほうが危険ですよ。

(5) 利用可能性/受動性の表現

 これに至っては、批判するのも馬鹿らしいです。「寝そべっている女性を上から眺めている」「女性が片手または両手を上げて性的な部位を無防備にしているポーズ」「恥じらいや戸惑いの表情」もダメだそうです。困りましたね。女性は能動的に男を誘惑することもできませんよ。お嬢様はそんなはしたないことしないのかもしれませんが。

 誘ってもいないのに誘われたと勘違いするのは男が馬鹿だからです。そんな馬鹿男は気にせずに女性は自由にセクシーに振舞いましょう。その方が痴漢にも狙われにくいですし。

 

■性的な女性表象の累積的抑圧

 このパートでは、表象(表現)ではない、現実の行為について述べています。現実の性差別が駄目なのは言うまでもありません。現実の行為とフィクションの混同を実地で示しているパートです。

 

■表象の読解の必要性

 このパートでも珍妙なことを宣っていますね。

まず当然のこととして、身体の露出や裸体、性行為や性暴力を描くことそれ自体は、そこに性的客体化が表現されているかどうかとは別のことです。性的客体化の技法抜きにそれらを描くこともでき、そのときはフェミニズムの観点からはそれらは差別的ではないということになるでしょう。

  わかりにくい文章ですが、性的な表象自体が女性を道具的、非自律的etc.として扱っているとは限らないという意味でしょう。ここはまともです。だから、表象の読解が必要なのでしょう。これも結構です。で、その読解の判断基準が次です

 さらに、問題は表象作成者の差別的意図にあるわけでもありません。ほとんどの場合作成者は女性を差別しようという意図などは持っていないでしょう。しかし「お約束」として安易にパターン化された技法を使えば、それは一定の仕方で女性を意味づけることになり、それゆえその是非が問われるものとなります。

  ぶったまげたました。恐ろしい発言ですね。性差別的意図がなくても、前述の5つの表現技法を使えば是非を問われるんですよ。「相手がセクハラと感じればセクハラだ」というセクハラの定義がありますが、これはそれ以上です。相手が差別だと感じなくても、自分にその意図がなくても、5つの表現技法を使えば性差別になるんですよ。その表現技法は古今東西の文学、演劇、美術で無数に使われています。これらを一掃しようという文化大革命構想じゃないでしょうか。

 

■「法規制より論争を」

 このパートでなぜかトーンダウンします。さすがに表現技法で断罪するのはやり過ぎと考え直したのでしょうか。法規制ではなく論争をと安心させてくれました。でもここだけ「法規制より論争を」とかっこ書きになっているのは何故なんでしょうか。気になりますね。ここでは、公的空間でのゾーニングなどあまり異論のない普通のことを述べていますがかっこ書きが大逆転を暗示しているようで不安ですね。

 

■私たちは議論の出発点に立った

 大逆転はありませんでしたが、結びのパートで、結局なにを言っているのかわからなくなります。途中では「表現技法で性差別とみなす」とかなり過激なことを主張するも、それは無茶と考え直したのか「論争を」とトーンダウンし、議論の出発点に立ったと言われても、どういう観点で論争を始めてよいか分かりません。5つの技法以外に法規制が望ましい表現技法を探そうというのでしょうか。それとも単に、「私はこんな表現技法は好きじゃない」と雑談でもすればよいのでしょうか。この論説は、小宮 友根氏が好まない表現技法を列挙しただけという気がしないでもありません。なにしろ何故NGなのか説明がありません。

 そこで、私の提案ですが、性差別を扱う前に、映像表現の自由とは何かを論争するのはどうでしょうか。例えば似顔絵のデフォルメはどこまで許されるかとかどうでしょう。個人的には、どのような表現も原則は自由だと思っています。実害が無視できなくなれば例外的にゾーニングなどの制限をすればいいのです。このように考えた方がアプリオリに悪い表現があると鵜呑みにするより、悪い理由を考えることになるんじゃないでしょうか。