将来世代へのツケ

 財務省財政赤字を「将来世代へのツケ」と言っています。

わが国財政の現状等について
財政にもまた「共有地の悲劇」が当てはまる。現在の世代が「共有地」のように財政資源に安易に依存し、それを自分たちのために費消してしまえば、将来の世代はそのツケを負わされ、財政資源は枯渇してしまう。悲劇の主人公は将来の世代であり、現在の世代は将来の世代に責任を負っているのである。

 この「共有地の悲劇」の例えは不適切と思いますが、その前に、ツケを回される将来世代というのは誰のことなのでしょうか。なんとなく、将来の国民と言いたげですが、本当にそうなのか、具体的にお金の流れを追ってみましょう。借金をしたのは、現世代の政府で、現世代の国民の誰かが国債を買ってお金を出します。ツケを回されたのは、借金を返さなければならない将来世代の政府です。つまり、今の政府が将来の政府にツケを回しただけで、国民は関係ありません。でもまあ、将来の政府が謝金を返せず、破綻すれば国民も困ると言いたいのかもしれません。

 では、財務省は国民が困らないようにどうしようとしているかというと、返す必要のない税金を増税すると言っているのですね。なんのことはない、将来の政府にツケを回さないで、今の国民にツケを回すと言っているだけじゃないですか。トンだ詭弁ですが、政府が借金を返せずに破たんすれば国民も困るのは確かと思う人もいるかもしれません。そこで、借金を返せない破綻状態がどんなものか、増税した場合と比較してみましょう。 

 今すぐ税金を徴収する場合と将来政府にツケを回し、返せなくなってしまった場合の比較になります。どちらの場合も現世代の国民がお金を政府に渡します。そして、どちらの将来も、政府はお金を返しません。約束を破る破らないという違いはありますが、国債金利を無視すればお金の流れ自体はなにも変わりません。

 従って、財務省の言うように、借金が返せない状態が「共有地」の資源が枯渇であるならば、増税した場合も枯渇です。国民という「共有地」から収穫したお金は全く同じで、将来の政府に残っているお金も同じなのですから。

 以上は、「共有地」から収穫するお金が同じという説明ですが、実際には、お金は経済活動で増えたり減ったりします。二つのケースではそこに違いが出てきます。そして、政府が収穫するお金や国民という「共有地」に残るお金は、デフレの時には増税の方が少なくなってしまうというのが反緊縮派の指摘です。

 どこが違うかと言えば、政府が収穫するお金の総額は同じでも、収穫の仕方が違います。国債は貯蓄に余裕のある投資家が買いますが、税金は、貯蓄の余裕のない人からも一律に徴収されます。その結果、消費や投資を切り詰めざるをえなくなり、景気が悪化し、国民のお金はさらに減ってしまいます。すると税収も減るので、「共有地」からの収穫を保つにはさらに増税しなければならず、悪循環になります。

 実はさらに大きな違いがあり、国債の場合「共有地」から収穫する必要もありません。日銀が国債を買えばいいのです。そのお金は日銀が発行するだけです。これは財政ファイナンスといって禁止されているそうですが、すでに発行されている国債の引き受けは可能で、間接的に新規国債発行を促しているようです。ここが、「共有地」の牧草とお金の大きな違いです。お金は牧草のように実体的な価値を持ちませんが、経済活動に影響を与え実体的な価値を産みだします。そういう意味で、お金を「共有地」の資源に例えるのは正確ではないと思います。

 それでも、あえて「共有地」に例えるなら、次のようになると思います。「共有地」の牧草は普通の牧草ではなくて、将来から時間を超えて移植できます。現在の「共有地」は不景気のためやせ細っており、収穫してしまうと枯渇してしまう恐れがあります。そこで、将来の「共有地」から移植します。いずれ、それは返済しなければなりませんが、移植の効果で豊かになれば、十分に返済可能です。これが国債の例えです。一方、増税とは、現在のやせ細った牧草地から収穫を続けることに相当します。ますますやせ細るので収穫量の比率(税率)も増やし続けなければなりません。いずれ枯渇するんじゃないでしょうか。