差別と区別と評価

■区別に差別は含まれる

 「差別ではなく,区別である」。曾野綾子氏の弁明にも登場した,良く聞くフレーズです。こういうからには,「差別」と「区別」の区別をしてもらわなければなりませんが,あまり腑に落ちる説明を見たことはありません。仕方ないので,自分で考えてみました。なお,主眼は差別と区別の違いを明らかにすることではなく,「差別ではなく,区別である」という言い訳が何故使われるのかを考えることです。

 先ず,「区別」は「差別」を含む,より広い概念だといえます。「区別」は違いによって分けるという意味で,単なる分類行為も「扱いを変える」ことも意味します。それに対して「差別」は「扱いを変える」ことの更に一部です。単なる分類行為は,分類される対象の性質でほぼ決まりますが,扱いは分類する側の主観的判断が係わっています。

 このことは,具体的に言葉にしてみれば明白です。「黒人と白人区別した」や「黒人と白人区別した」とは言えても,「黒人と白人差別した」とは言えません。「黒人差別した」が正しい日本語です。「に」と「を」の違いです。「区別」という言葉を使って「差別」を表すことも出来ます。「肌の色の違いを理由に黒人の扱いと白人の扱いを区別した」といえば「差別」を意味します。

 以上の簡単な確認だけからでも,「差別ではなく,区別である」は全く弁明になっていないことが分かります。「殺人ではなく,犯罪である」と言うようなものだからです。犯罪であることは殺人ではないことを意味しませんが,なんとなく軽犯罪程度の印象を与える効果はあります。「区別」であることは「差別」ではないことを意味しませんが,なんとなく単なる分類のような印象を与える効果が有ります。

 少なくとも,「単なる分類」ではなく「扱い」であることは明白です。なぜなら単なる分類は既になされていて,別に彼らが行ったのではないからです。黒人と白人の単なる分類は昔からあり,曾野綾子氏が行ったのは,扱いの区別です。ですから,ちゃんと「差別」でないと弁明するならば「適切な扱い」であることを説明しなければなりません。

 その説明が上手く出来ない場合に採られる戦術に議論の拡散があります。いっそ大きなウソをつくとごまかせたりします。つまり,明らかにあり得ない「単なる分類」に過ぎないと臭わすことで,「適切であるか否か」という議論の焦点をぼかしてしまうわけです。拡散戦術では「区別」のような広い概念の言葉は便利に使えます。「単なる分類行為だ」と限定した言い方をすれば,簡単にウソだと分かってしまいますが,「区別である」というだけなら,ウソではないからです。と同時に弁明にもなっていないのですが,有耶無耶にすることは出来ます。


■人間の評価では,評価される側の利益が優先される

 こういうごまかしは案外通用するものですが,ちゃんと考えれば「扱いの区別」をしていることは否定しようがありません。ただし,「扱いの区別」にも「差別」と「やむを得ない区別」があります。この点について私見を述べます。

 一般的に「差別」とは「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」と言われます。しかし,これでは,盲人をパイロットに採用しないことも,白人の伝記映画の主役に黒人を登用しないことも差別になってしまいます。そこで,少し修正して「合理的根拠なく扱いを変えること」と言うこともあります。盲人をパイロットに採用しないのは合理的根拠があると見なせます。

 では次の様な場合は合理的根拠といえるでしょうか。
「力仕事なので女性は採用しない。」
「寿退社で業務に支障を与える可能性の高い女性は採用しない。」
「外国人は言葉が通じなかったり,文化が異なり,隣人に迷惑を与える可能性が高いので入居させない。」
「米国では黒人のDVが多いという統計があるので,娘の結婚の対象としない。」
「教育水準が低い○○県出身者は当大学の入学資格はない」

 つい数十年前までは,前の方の例は合理的根拠と思われていたくらいですから,今でもそう考える人もいるかも知れません。さすがに後の方の例ではそんな人はいないと思いたいです。ですが,これは総て統計的には合理的根拠と言えるという点で共通しています。現実的にはこのような判断は良い結果をもたらす可能性が高いという意味で合理的根拠です。

 統計的に判断するということは,集団の属性で判断し,個人の能力を斟酌しないことです。現実的には個人の能力を評価することは難しく,集団の属性で判断した方が平均すれば良い結果になる場合も多々あります。しかし,現代では差別とみなされます。人間の評価は手抜きをせずに個人の特性を考慮しなければなりません。何故そうなのかといえば,評価する側の都合よりも評価される側の利益を優先しているからだと思います。大体において評価される側の立場が弱いので,バランス上そういう配慮が必要なのでしょう。

 このような配慮では,相手の立場に立って考える能力が要求されます。そのために人間の脳にはミラーニューロンなるものが備わっています。スポーツのイメージトレーニングなどでも働いていますが,社会生活をおくるサルにも備わっているそうです。この働きによって,社会生活は円滑になり人間は文化を発達させることが出来ました。もちろんきれい事ばかりではありません。相手の立場で考えられるということは,相手の恐怖も感じることが出来,それを利用して相手を制御することも出来ます。あからさまな恐怖政治から,外敵の脅威や健康不安を煽って政策を誘導したり,販売促進を図ることまで行われています。

 ただ,曾野綾子氏のような人は,恐怖を利用して誘導する側ではなくて,誘導されている側のような気がします。憶測に過ぎませんが,あまりに発言が素朴で,自分の恐怖しか考えていないように見えるからです。異文化によって飲料水が奪われたり,仲間内との気兼ねない生活が脅かされる恐怖です。そして,その恐怖にいわれがあろうと無かろうと,差別であるかどうかにはあまり関係ありません。