エスカレーターで歩かないのは緩い原則

 エスカレーターの片側空けは、急いでいる人への配慮が発祥で次第にマナーとなりました。一部の人はルールと勘違いしているようですが、配慮ですよ。 配慮とは、したほうが望ましい気づかいですが、しなかったからと言って、重大な支障が生じるわけでは有りません。もし、支障があるのならば、マナーではなく施設管理者がルールにしたり、場合によっては法律で規制しなければならんでしょう。

 前回の記事でエスカレーターで歩く人のほとんどに、急ぐ理由がないと述べました。従って、急いでいる人に配慮しなくても重大な支障は生じません。利便性が損なわれ、不快な気分になってストレスが溜まるかもしれませんが、その程度の支障です。その程度の支障もないに越したことはないだろうと心暖かい配慮からマナーとなったわけです。

 その後、片側空けで別の支障が生じる人がいることが分かってきました。その支障も重大な支障とまでは言えないならば、お互いのストレスを衡量して解決策を図ることになります。でも、対立のストレスを増やすのも本末転倒です。ムキにならずに譲った方がストレスになりません。譲り合いもマナーです。冒頭に述べたように、元々、片側空けは配慮ですからね。その程度のものです。それを権利のように思って、配慮が足りないと怒るなんて、勘違いした道徳教育推進教師ですね。

 ところが、片側空けの支障は利便が損なわれるというレベルではなくて、危険という重大な支障だったんです。そもそもエスカレーターは階段の規定を満足しておらず、歩いてはいけないものです。実際上それほど危険ではないだろうと黙認されていましたが、残念ながら接触転落事故がそこそこ発生しています。
 厳しく言えば、歩いてはいけないのは、マナーではなく、法律で規制されています。ただ、施設の設計や管理者側の規制なので、利用者を直接規制できなかったけです。6年前の記事にも書きましたが、東日本大震災後の節電で停止したエスカレーターは使用禁止になっていました。階段として利用させて事故が起こった場合、管理者責任を問われる可能性があったからでしょう。東芝エレベーターの「エスカレーターを所有・管理する皆さまへ」にも次のように書かれています。要するに、安全第一、利便第二です。

エスカレーターを休止する場合は、一般の利用者が階段として使用しないように、進入防止処置を実施してください。

利用者がつまずき、転倒するおそれがあります。

  とはいえ、法やルールでガチガチに規制するのも嫌ですね。乗り降りの際は歩かざるを得ないし、接触転落の恐れがないなら自己責任で歩いてもいいでしょう。生まれてこの方、歩いたことは無いし、今後も絶対歩かないという人もいないでしょう。立ち止まっている人がいても「ボーッと突っ立ってんじゃねえよ。邪魔だどけ」なんて言わ無けりゃいいです。

 片側空けも配慮なら良かったんです。それがルールみたいになって雰囲気が悪くなりました。その反動で歩くなルールが同じ轍を踏むのは避けたいですね。あくまで緩い原則ということで普及して欲しいです。

エスカレーターを歩く心理

 「エスカレーターは歩かないで手すりを掴んで乗りましょう」。これは随分前から言われています。6年前に私も関連の記事「エスカレーターは階段ではない」を書きました。それから状況はあまりかわりませんね。

 変わらないのは何故でしょうか。一つは、安全の問題ではなくて、マナーの問題と考えている人が多いからじゃないですかね。数年前までは多くの鉄道会社が「あくまでもマナーの問題。『歩くな』とは強制できない」なんて言ってましたからね。

 最近は、安全の問題と認識されるようになってきたようですが、依然として歩く人はあまり減りません。その原因を考えていて、一般的な事故対策と同じ問題がありそうだと気づきました。事故対策では「安全意識の向上」を唱えてもあまり効果がありませんが、エスカレーターの歩行問題も「利用者の意識向上」を唱えているだけなんですね。

 事故の原因になる不安全行動を止めさせるには、何故そのような行動をするのか理由を把握するのが第一歩です。エスカレーターで歩く理由は考えるまでもなく「急いでいるから」と思ってしまいます。ところが、歩いている人をよくよく観察すると、それほど急いでいるようではないのです。私の観察の範囲では、以下の様な状況です。

・最も一般的な急ぐ状況としては電車に乗り遅れそうな場合がある。その場合、ホームに上がるエスカレーターの方が、下りエスカレーターより歩く人が多いはずだが実際は逆。朝の登り歩行側はガラガラで、夕方の下り歩行側はそこそこ混んでいる。

・急いでいるなら、エスカレーターに乗る前や、降りた後も急いで歩くか走るはずだが、そんな人は殆ど見かけない。

・私も電車が発車しそうだと、急ぎたくなるが、別にその電車じゃなくても遅刻するわけじゃない。終電車を除き、数分待って次の電車でも何の支障もない。

 つまり、急がなければならない切実な理由が有るのではなく、止まっているのはイライラするというだけだろうと思えるんですね。私もジッとしているのはストレスを感じますから。あくまで、私の推測に過ぎませんが、歩く心理について調べたものもあるようです。ソースは見つけられませんでしたが。

エスカレーターで歩くの禁止っていつからそうだった!?事故事例も調べた結果「実は非効率で危険!」

駅のエスカレーターの速度は毎分30mで時速1.8kmです。
混雑状況にもよりますが、駅のホームを歩く速度は時速3kmと言われていますので、エスカレーターを時速3kmにすれば歩かなくなると思います。

何故歩くかというと、急いでるわけではなく、時速3kmから時速1.8kmになることの不快感やストレスを本能的に避けるために無意識に歩くからだと言われています。

  また、早く移動したいのは急ぐからでなく競争心からと示したデモンストレーションもあるようです。

www.athome.co.jp

 高速道路で前をゆっくり走る車がいると追い越したくなることや、信号待ちでイライラするのも同じ心理でしょう。別に急ぐ理由がなくてもストレスが溜まります。

 このストレスは、他の人にも圧力となります。エスカレーターの歩行側で立ち止まって、後ろからの歩きたいストレスを抱え込んでいる集団をせき止めるには、強靭な心臓が必要です。歩かない側に移るスペースがない場合、歩きたくなくても歩かざるをえない心理的圧力を感じます。

 このようなストレスが原因なら、歩行の危険性や輸送効率の悪さを訴えても効果は薄いです。歩く理由は理屈ではなくて、本能的というか無意識の行動だからです。こういいう場合の有効な対策は、一般的な事故対策同様に「安全設備」つまり、物理的に歩けないようにしてしまうコロンブスの卵的対策です。例えば蹴上を高くして歩けないようにすればよいですが、まあ非現実的です。

 ならばどうするかというと、歩く方の心理的ストレスを大きくする方法があります。実際にコミケ会場などで行われているように、係員が拡声器で「歩かないでください」と呼びかければ、それに逆らってまで歩く心理的ストレスの方が大きいでしょう。あるいは、エスカレーターのスピードを速くして、歩かないストレスを減らし、かつ歩く危険を実感させ歩くストレスを増やすという方法もあります。しかし、これもあまり現実的ではないでしょう。

 ということで、あまりいいアイデアは浮かびません。せいぜい「歩くな」という表示や掲示を目立つようにするぐらいでしょうか。表示や掲示では歩きたいストレスを減らすことは出来ませんが、歩きたいストレス集団に抵抗しやすくは、なるかもしれません。現状ではそれすらない駅が多いですけど、デカデカと表示してくれれば私も立ち止まりやすくなるんですけどね。

イベントコンパニオンのヒールを履く服務規定は女性差別?

 この間,「イベントコンパニオンのヒールを履く服務規定は女性差別?」というツイッターのアンケートをみました。ほぼ三分の一が女性差別という結果でした。意外に多いと驚きました。女性差別に何故なるんでしょうかね?。性差別というのは,根拠がないのに男女間の扱いを変えることですが,イベントコンパニオンは女性だけの仕事なので,扱いを変えようがないと思うんですけど。もちろん服務規定に問題がある可能性はありますよ。でもそれは,差別とは別の労働条件の問題でしょう。仮に差別があるとすれば,イベントコンパニオンという職業の存在自体が差別であるということになります。

 職業自体が差別という場合も2種類考えられます。一つは,屈辱的な仕事を女性だけにやらせているというもので,前々世紀の女給や酌婦を蔑視するような時代はあったかもしれませんが,現代ではアナクロでしょう。いろんな考えの人がいますから,女性アイドルや女優などの女性性を商品化している職業が差別だという主張をする人が現代でもいないとは限りませんけどね。あえてその気持ちを推測すると,そういう職業で女性が人間として扱われずに搾取されてきたという歴史を言っているのかもしれません。でも,現代のコンパニオンが自分の職業をそのように思っているのでしょうかね。もし仮にそう思っているのなら,服務規程の撤廃などと生ぬるい要求じゃなくて,職業からの解放を訴えたほうがいいですね。

 もう一つ別の観点からの差別という主張は,男性だけが接客サービスを受けられるのは不公平で,男性のコンパニオンもいるべきだという考えです。そういう需要があるかどうかわかりませんが,そう思うなら,誰も反対しませんから,事業を始めればいいんじゃないかと思います。ただ,この場合も女性コンパニオンがヒールを履く服務規程の問題とは無関係です。

 ということで,服務規程と性差別は関係ないと思うんですけど,労働条件の問題は残ります。職業病を引き起こすような労働条件はまずいからです。プロレスラーは殴られたり蹴られたりするのが仕事とはいえ,限度というものはあります。プロレスラーが格闘を商品としているように,コンパニオンは女性性を商品としていますから,服装の服務規程があるのは合理的で差別ではありません。しかし,限度があるのは当然です。足に障害が残るようではいけません。

 コンパニオンに女性的な服装を求める服務規程があるのは差別ではありませんが,女性性の必要がない事務職に女性というだけで,服装の規程があるのは差別でしょうね。この区別が出来ない人が,性差別に限らず,一切の違いを認めないという異様に平等で均質な社会を目指しているようで心配なんですよ。私が特別心配性だからじゃないです。なにしろ異様に平等で均質な社会は一部で実現しましたからね。

 一時話題になった、運動会の徒競走でみんな手をつないでコールインがその一例です。競争は順番を付けることが目的でそれで盛り上がるわけですが,なぜか順番を付けることが差別だと考えたようなのですね。順番付けが差別なら、競走を止めるしかありませんが、順番を付けることだけ止めて「競争」を続けるという意味不明な対応をしてしまいました。こういうことも現実に起こるので,男性と区別がつかない格好の女性が接客するという奇妙に平等で公平な時代が訪れないとも限りません。

 次のアンケートをしたら,意外な結果がでるかも。

・女優に演出でヒールを履かせるのは女性差別
・プロレスラーが殴られるのは男性差別
・事務職が運動不足になるデスクワークをさせられるのは職業差別?

将来世代へのツケ

 財務省財政赤字を「将来世代へのツケ」と言っています。

わが国財政の現状等について
財政にもまた「共有地の悲劇」が当てはまる。現在の世代が「共有地」のように財政資源に安易に依存し、それを自分たちのために費消してしまえば、将来の世代はそのツケを負わされ、財政資源は枯渇してしまう。悲劇の主人公は将来の世代であり、現在の世代は将来の世代に責任を負っているのである。

 この「共有地の悲劇」の例えは不適切と思いますが、その前に、ツケを回される将来世代というのは誰のことなのでしょうか。なんとなく、将来の国民と言いたげですが、本当にそうなのか、具体的にお金の流れを追ってみましょう。借金をしたのは、現世代の政府で、現世代の国民の誰かが国債を買ってお金を出します。ツケを回されたのは、借金を返さなければならない将来世代の政府です。つまり、今の政府が将来の政府にツケを回しただけで、国民は関係ありません。でもまあ、将来の政府が謝金を返せず、破綻すれば国民も困ると言いたいのかもしれません。

 では、財務省は国民が困らないようにどうしようとしているかというと、返す必要のない税金を増税すると言っているのですね。なんのことはない、将来の政府にツケを回さないで、今の国民にツケを回すと言っているだけじゃないですか。トンだ詭弁ですが、政府が借金を返せずに破たんすれば国民も困るのは確かと思う人もいるかもしれません。そこで、借金を返せない破綻状態がどんなものか、増税した場合と比較してみましょう。 

 今すぐ税金を徴収する場合と将来政府にツケを回し、返せなくなってしまった場合の比較になります。どちらの場合も現世代の国民がお金を政府に渡します。そして、どちらの将来も、政府はお金を返しません。約束を破る破らないという違いはありますが、国債金利を無視すればお金の流れ自体はなにも変わりません。

 従って、財務省の言うように、借金が返せない状態が「共有地」の資源が枯渇であるならば、増税した場合も枯渇です。国民という「共有地」から収穫したお金は全く同じで、将来の政府に残っているお金も同じなのですから。

 以上は、「共有地」から収穫するお金が同じという説明ですが、実際には、お金は経済活動で増えたり減ったりします。二つのケースではそこに違いが出てきます。そして、政府が収穫するお金や国民という「共有地」に残るお金は、デフレの時には増税の方が少なくなってしまうというのが反緊縮派の指摘です。

 どこが違うかと言えば、政府が収穫するお金の総額は同じでも、収穫の仕方が違います。国債は貯蓄に余裕のある投資家が買いますが、税金は、貯蓄の余裕のない人からも一律に徴収されます。その結果、消費や投資を切り詰めざるをえなくなり、景気が悪化し、国民のお金はさらに減ってしまいます。すると税収も減るので、「共有地」からの収穫を保つにはさらに増税しなければならず、悪循環になります。

 実はさらに大きな違いがあり、国債の場合「共有地」から収穫する必要もありません。日銀が国債を買えばいいのです。そのお金は日銀が発行するだけです。これは財政ファイナンスといって禁止されているそうですが、すでに発行されている国債の引き受けは可能で、間接的に新規国債発行を促しているようです。ここが、「共有地」の牧草とお金の大きな違いです。お金は牧草のように実体的な価値を持ちませんが、経済活動に影響を与え実体的な価値を産みだします。そういう意味で、お金を「共有地」の資源に例えるのは正確ではないと思います。

 それでも、あえて「共有地」に例えるなら、次のようになると思います。「共有地」の牧草は普通の牧草ではなくて、将来から時間を超えて移植できます。現在の「共有地」は不景気のためやせ細っており、収穫してしまうと枯渇してしまう恐れがあります。そこで、将来の「共有地」から移植します。いずれ、それは返済しなければなりませんが、移植の効果で豊かになれば、十分に返済可能です。これが国債の例えです。一方、増税とは、現在のやせ細った牧草地から収穫を続けることに相当します。ますますやせ細るので収穫量の比率(税率)も増やし続けなければなりません。いずれ枯渇するんじゃないでしょうか。

日銀券の流通と財政赤字

 にわか勉強で、通貨の内、金融機関の預金は金融機関の融資により創造され流通していると分かりました。では、現金(とりあえず紙幣)はどのようにして市中に流通していくのでしょうか。またその発行量を日銀はどのように調整するのでしょうか?日銀の説明は次の通りです。

銀行券の発行

日本銀行法では、日本銀行は、銀行券を発行すると定めています。銀行券は、独立行政法人国立印刷局によって製造され、日本銀行が製造費用を支払って引き取ります。そして、日本銀行の取引先金融機関が日本銀行保有している当座預金を引き出し、銀行券を受け取ることによって、世の中に送り出されます。この時点で、銀行券が発行されたことになります。

 この説明では、知りたいことが全然分かりません。日銀の金庫の現金が、どのようにして取引金融機関の当座預金に流れていくのでしょうか。日銀が金融機関の日銀当座預金に親切にも入金してくれれば、金融機関は大喜びですが、そんな馬鹿なことはあり得ません。おそらく、金融機関は日銀から借金しなければならず、それで日銀当座預金残高が増えます。次に、それが引き出されて、さらに融資されるなどしてやっと市中に流通するのでしょう。

 重要なのは、融資などの需要があることで、そのような使途がなければ、日銀が日銀券をいくら印刷してもお金は金庫か日銀当座預金に死蔵されているだけで、市中には流通していきません。日銀は好きにお金を印刷できますが、貸付や流通を強制はできません。

 つまり、市中で経済活動に伴う取引がない限り、日銀から現金は出ていきません。そこでどうするかというと、日銀自ら取引を行うのですね。それを「公開市場操作」といいます。この言葉は良く聞きますが、一言でいえば、市場の国債の売買を行うことです。日銀が国債を買えば日銀の金庫から現金が代金として支払われるので通貨量が増えます。売れば、逆に減るので、経済情勢に応じて調整しているわけです。現金を直接、市中に放出したり、回収するという魔法はあり得ないので、国債の売買を通じて行っているということになります。

 ただし、それだけ、つまり金融政策だけでは不十分です。日銀が新規発行国債を買えば、現金は政府に渡りますが、政府が公共事業などでそのお金を使って初めて、民間へ現金が流通します。デフレでは、お金の価値が高くなっていくので、消費や事業への投資をするより貯蓄して金利で稼いだほうが得です。そのためお金が流通せず不景気が続きます。そこで、政府が呼び水の支出を行うわけですね。そうすると、お金が増えて価値が下がりますから、民間の消費や投資も進むようになるという理屈です。理屈だけでなく、実際の歴史にも合っています。

 ここまで来て、やっと最初の疑問の答えがなんとなく分かりました。日銀は公開市場操作によって、お金を政府に流し、政府がそれを支出して、消費や投資を刺激します。消費や投資の需要が増えれば、金融機関は信用創造で預金を増やしたり、日銀当座預金を現金に換えたり、それでも不足なら日銀から借りるのでしょう。そのようにして市中の通貨(預金と現金)が増えていきます。

 以上から感じるのは、通貨が先にあるのではなく、経済活動に伴う取引が先だという事実です。通貨は取引の交換が同時に行われない場合の履行約束みたいなものですから、前提として取引があります。歴史的にも、通貨は取引に伴う借用書や預かり証つまり債務の証明書から発展したのであって、金貨のように通貨自体に価値があったとは限らないようです。金が通貨になったのではなく、金の預かり証が通貨になったということです。取扱い安さという実用面からも、その方が合理的です。

 ここで、話は変わりますが、財政赤字について考えてみます。財政破綻を心配する財政緊縮派に対して「政府はお金を発行できるので破綻しない」という反論があります。私はこの反論は説明不足で少々乱暴だと思います。上述のように、お金が先ではなく、取引が先ですから、取引の実態や需要がない所に、お金だけ発行しても、物価が上がるだけで、景気はよくならないスタグフレーションになるだけではないでしょうか。先ずは、取引の需要を増やす必要があり、だから、政府が公共事業などで支出を増やすわけですね。それに伴いお金が増えていき、それに引き続き、民間の消費や投資も増え、さらに税収が増え、財政赤字も解消するという順序ではないかと思います。

 財政緊縮派もそれへの「政府はお金を発行できるので破綻しない」という反論も、消費や投資の需要を考えていない点で似たり寄ったりと思います。

石綿除去工事における洗眼及びうがいのできる設備の設置場所

 今回の記事は、重箱の隅を楊枝でほじくって、揚げ足を取るような話である。石綿除去工事に関わる人以外にはわかりにくいし、面白くもないと思う。それでも、錯覚の問題としてみると、興味深いかもしれない。

 石綿障害予防規則(以下、「石綿則」という。)31条には、次の規定がある。

事業者は、石綿等を取り扱い、又は試験研究のため製造する作業に労働者を従事させるときは、洗眼、洗身又はうがいの設備、更衣設備及び洗濯のための設備を設けなければならない。

 「石綿等を取り扱い、又は試験研究のため製造する作業に労働者を従事させるときは」とあるように、建築物の解体や石綿除去工事に限定した規定ではない。一方、建築物の解体や石綿除去工事に関しては、次の第6条の規定もある。

第6条2 事業者が講ずる前項本文の措置は、次の各号に掲げるものとする。
一 前項各号に掲げる作業を行う作業場所(以下この項において「石綿等の除去等を行う作業場所」という。)を、それ以外の作業を行う作業場所から隔離すること。
二 石綿等の除去等を行う作業場所にろ過集じん方式の集じん・排気装置を設け、排気を行うこと。
三 石綿等の除去等を行う作業場所の出入口に前室、洗身室及び更衣室を設置すること。これらの室の設置に当たっては、石綿等の除去等を行う作業場所から労働者が退出するときに、前室、洗身室及び更衣室をこれらの順に通過するように互いに連接させること。

 石綿除去等を行う作業場所は隔離し、その出入口には前室、洗身室及び更衣室を設置しろという規定である。この3室をまとめてセキュリティーゾーンと呼ぶ。

 では、石綿除去工事では、31条の「洗眼、洗身又はうがいの設備」はどこに設置しなければならないのだろうか?石綿則には特に規定はないが、労働安全衛生法第28条第1項の規定に基づく技術上の指針なるものがあり、「石綿指針」と呼ばれている。そこに次のように書いてある。

2-2 吹き付けられた石綿等の除去等に係る措置
 2-2-1 隔離等の措置
  3)前室及び設備の設置」
   イ 洗眼及びうがいのできる洗面設備並びに洗濯のための
     設備を作業場内に設けること。

 「作業場内」に設けることになっているのだが、その定義は特に無い。ちなみに、石綿則6条には「石綿等の除去等を行う作業場所」を、それ以外の作業を行う作業場所から隔離すること。」という規定もあるので、「作業場内」とは特に限定はないと解釈できる。

 さらに、厚労省は、「石綿飛散漏洩防止対策徹底マニュアル」という手引きのようなものも出しており、そこに「石綿指針」の解説があり、次のように書いてある。

石綿指針2-2-1(3)のイ中「洗眼及びうがいのできる洗面設備ならびに洗濯のための設備」は、セキュリティーゾーン内に設ける洗身設備とは別に設ける必要がある。《平成 21 年 2 月18 日 基発第 0218001 号》

 「セキュリティーゾーン内に設ける洗身設備」とは、一般的にはエアシャワーであるが、排水処理装置を備えたシャワーを設ければ、洗眼及びうがいも出来る。しかし、洗眼及びうがいのできる洗面設備を兼ねることは出来ないということであろう。つまり、セキュリティーゾーンの外に設けることになる。

 ほぼ同様の解説が、環境省大気汚染防止法関連の「建築物の解体等に係る石綿飛散防止対策マニュアル」にもある。次の通りである。

セキュリティゾーン内に設ける洗浄設備とは別に,洗眼,洗身又はうがいの設備,更衣設備及び洗濯設備をセキュリティゾーン以外の場所に設ける必要がある。(平成 21 年 2 月18 日付き基発 0218001)
これらの洗浄設備は施工区画の内部に設けることが望ましい。

 ここで「施工区画」と言っているのは、隔離空間、セキュリティーゾーン、その外部の資材置き場などを含む作業を行う場所全体の事である。そこは、区画されて、作業者以外が立ち入らないよう管理される。石綿指針の「作業場内」と同じと解釈できる。以上より、洗眼,洗身又はうがいの設備は、セキュリティーゾーン以外の施工区画内に設置するという結論になる。

 以上は、前置きで本題はこれからである。上述の二つのマニュアルで参照されている「平成 21 年 2 月18 日 基発第 0218001 号」には、マニュアルの解説のようなことは一切書かれていないのである。おそらく、次の記述を誤読したのだろう。

第3 細部事項
 1 石綿則関係
  (3)第6条関係 
   ク 第2項第4号の「前室」とは、隔離された作業場所の
     出入口に設けられる隔離された空間のことであること。
     なお、前室内に洗浄設備を設けた場合であっても、
     洗身室を併設させる必要があること。

  ここで、述べてあるのは、洗浄設備を前室に設けても、洗身室と兼ねてはいけないとしか読めない。つまり、セキュリティーゾーンは3室を独立して設けよということで、洗眼及びうがいのできる洗面設備はセキュリティーゾーンの外に設けよとはどう解釈しても読めない。
 また、洗眼又はうがいのできる設備は、石綿除去工事現場だけでなく製造施設なども対象とした石綿則31条の規定であり、6条にはない。「平成 21 年 2 月18 日 基発第 0218001 号」には、第31条関係の記述はないのである。

 6条の説明を31条の説明と間違え、かつ書いていない解釈をしている。なかなか珍しい錯覚だと思う。

よくわからない準備預金制度

 前記事で、準備預金制度への疑問があると述べました。少し調べたら、ますます分からなくなりました。

 準備預金制度の目的の説明にはいくつかありますが、大きく分けると、①預金者保護と②通貨調節手段のようです。預金者保護というのは、預金引出しに備えるという意味のようです。通貨調節手段とは、準備率操作を通じて金融を緩和、または引き締めることのようです。①は金融機関の説明に多く、②は日銀の説明と準備預金制度に関する法律の目的に書いてあります。

www.boj.or.jp

 かつては、準備率を上下させることにより、金融機関のコスト負担の増減を通じてその貸出態度等に影響を与えること、つまり、準備率操作を通じて金融を緩和、または引き締めることを目的として運用されていました。しかし、現在、わが国をはじめ短期金融市場が発達した主要国では、そうした金融緩和・引締めの手段として準備預金制度は利用されておらず、わが国の準備率も、1991年(平成3年)10月を最後に変更されていません。
 1990年代以降、無担保コールレート(オーバーナイト物)が金融市場調節の主たる操作目標になる中、準備預金制度の役割としては、金融機関に対し、日本銀行に預け入れる当座預金の残高について、日々「法定準備預金額(所要準備額)」を維持するよう促すことがより重要となってきました。これにより、日本銀行当座預金に対する需要、すなわち、短期金融市場における資金の需要を概ね安定的かつ予測可能なものとし、そのうえで、オペレーションによって無担保コールレート(オーバーナイト物)を適切な水準に誘導していました。
 もっとも、2000年代の「量的緩和政策」(2001~2006年)や、「量的・質的金融緩和」(2013年~)の時期のように、日本銀行の潤沢な資金供給により、多くの金融機関が法定準備預金額を超える「超過準備」を有することが常態化してくると、準備預金制度に、各金融機関の日銀当座預金残高を安定化させる役割を期待することは難しくなります。こうした中、日本銀行は、補完当座預金制度の枠組みのもとで、「超過準備」に一定の金利を付すことにより、金融機関の裁定行動を通じて短期市場金利を一定の範囲内で推移するよう促しています。

www.daiwa.jp

 金融不安などで金融機関の資金繰りが悪化した場合に備えて、金融機関に対して、日本銀行当座預金に預かり資産の一定比率(準備率)以上を預け入れることを義務付けている制度。

www.tokaitokyo.co.jp

 金融不安などによって銀行など民間金融機関の資金繰りが悪化した場合、日銀当座預金に預けてある準備預金の一部を取り崩して、民間金融機関の支払いが滞るのを回避するために設けられているのが準備預金制度です。また、準備預金はあらかじめ決められた一定率によって、各金融機関が日銀当座預金に準備預金を積み立てていますが、この率を引き上げると、金融機関から日銀に資金が吸い上げられるため、金融引き締めと同じ効果をもたらします。逆に預金準備率が引き下げられると、金融緩和の効果が期待できます。

 先ず、①預金者保護については、日銀の説明にはありませんし、法律の目的にもありません。主に、民間金融機関が説明していますが、日常的な顧客による預金引出しに備えるためなら、銀行に現金を置いておかないと業務に支障が出ますし、額的にも僅かで済むのではないでしょうか。日銀当座預金から引出すのは、高額の現金の場合で事前に連絡が必要です。そもそも、多くても預金の数%の準備で預金者保護になるのでしょうか。

 次に、②の通貨調節手段ですが、日銀は現在、その目的では使っていないと言っているんですね。現在では、法定準備預金額を超える「超過準備」を有することが常態化していて、通貨調節手段として使えないそうです。そこで、「超過準備」に一定の金利を付すことにより、金融機関の裁定行動を通じて短期市場金利を一定の範囲内で推移するよう促して通貨調整しているらしいのです。だとすると、超過ではない準備預金は何のためにあるのか私には分かりません。現在は特に意味はないけど、歴史的経緯で残っているだけという印象を受けます。

 以上二つ以外に、準備預金の日銀当座預金には、良く知られた役割があります。金融機関が他の金融機関・日本銀行・国と取引を行う際の「決済手段」としてのご存じの機能です。A銀行のX口座からB銀行のY口座に振り込む場合、X口座の数字を減らし、Y口座の数字を増やすだけでは、A銀行の債務が減り、B銀行の債務が増えることになってしまいます。そこで、日銀のA銀行口座の数字を減らし、B銀行口座を増やして、振込は完了します。これは明快でよーくわかります。

 最後に①預金者保護について、もう一度考えてみます。銀行が日銀当座預金から現金を引き出すことが出来るのは、それ以前に現金を預けているからでしょう。でも、本当に現金で預けたのでしょうか。銀行が誰かに融資した債権でもよいのではないでしょうか。それでよいのなら、その債権は、信用創造で銀行が無から生み出したもので、現金の裏付けがあるものではありません。つまり、預金者保護と言っても、いざというときに日銀が現金を用立てているにすぎませんので、銀行保護と言った方が実態に近いような気がします。

 実際の所、日銀当座預金への出し入れが現金を伴うのかは、私の調査能力ではよくわかりません。しかし、少なくとも、上記の銀行間の振込では現金は伴っておらず、数字の操作だけです。なんというか、昔の金本位制の亡霊が残っている気分で釈然としないのですが、私の理解能力を超えてしまったようです。