紫は虹にない?

 「ヒトの目、脅威の進化」(マーク・チャンギ―・ジー)を読みました。知らなかったことがいろいろ書いてあって少し賢くなったと勘違いしましたよ。まだ全部読んでいないのですが、ひとつ気になったことがあったので、取り急ぎ記事にしてみました。

 この本には「虹には色はない」と書いてあります。しかし虹は赤・橙・黄・緑・青・の7色と子供の頃に教わりました。その外側には赤外線と外線があるとも言われますので色はないと言われると疑問符が頭上にポップアップします。ただ情けないことに、私はじっくりと虹を見たことはないので「この嘘つきめ」と断じることもできません。

 この本には、赤・橙・黄・緑・青・が虹に見られる波長の違いによる色で、と赤の波長の光を同時に受けた時に人間が感じる色と説明してあります。だから、波長の長さで一直線に並べたスペクトル上にははなく、虹の色も波長の順序で並んでいるのではないというわけです。一方、人間が感じる色を円環上に並べた場合は赤との間をつなぐためにがありますが、これは単一の波長の色ではないという説明です。

 説明自体に変なところはありませんが、まだモヤモヤするので、他の虹の説明を検索してみると、赤紫は赤との混じったもので虹にはないと説明したものがありました。色を赤、緑、青の原色の比率で平面状に表したCIExy色度図というものがありますが、この図はスペクトル軌跡と純軌跡の曲線で囲まれています。スペクトル軌跡上の色は単一の波長の色で純軌跡上と曲線の内側の色はいろいろな波長の光が混合した色です。純軌跡上の色が赤紫(あるいは)になります。

 

 

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 説明の内容は全く同じで、ただ純軌跡上の色をと呼ぶのか、赤紫と呼ぶのかの違いだけのことですね。赤紫の違いは結構微妙ですので、多分「ヒトの目、脅威の進化」でいう「」は日本では「赤紫」なのではないかという気がします。英語ではインディゴバイオレットパープルですが、この対応も微妙なので翻訳の問題なのかもしれません。

 要するに色覚という感覚的なものの命名には結構なブレがあるということだと思いますただ、一応日本では虹にはあるとするのが一般的なので、虹にないのはではなく赤紫と言っておくのが穏当かもしれません。

 さて、ここからが問題なのですが、虹の写真(?)をいろいろ見ているとどうも赤紫らしきものがはっきり写っているのもあるのです。一方で菫色で終わっているものもあり、この両者は見た目が全然違います。これはどういうことなんでしょうね。プリズムで分光した写真(?)も同様です。どうも写真のように見えてイラストと合成しているようにも見えます(はっきり「イメージです」と断っているものもある)。私みたいに本物をよく見たことがないイラストレーターが思い込みで書いているんでしょうかね?

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不確実性への対応 -立憲民主党・福山議員の質問から伺えること

■ 福山議員は素朴な検査拡大世論に乗っている
 5月13日,立憲民主党福山哲郎議員が謝罪しました。専門家委会議・尾身副座長への非礼を謝罪しただけで,自分の主張が間違いだった認めたわけじゃありません。では,その主張とは何だったのでしょうか。
 質問では,「実際の感染者数が,PCR検査で確定した陽性者数の10倍ほどあるのか」をしつこく問いただしていましたがそれが主張ではないと思います。なぜなら,別に政府も尾身副座長もそれは否定していませんからね。言いたいことは「無症状感染者を特定する検査を行え」でしょう。これは非常に素朴な主張で,同様の世論はワイドショーでも,ネット上でも溢れています。素朴な主張は分かりやすく聴衆に訴えやすいので政治家は多用しますね。
 正確に言うと,素朴な世論が求めているのは,国民の何%ほど感染者がいるという統計的な推計のための検査ではありません。それならば既に政府は,無作為抽出抗体検査で6月中に実施予定です。この疫学調査では一人ひとりが感染しているかどうかは分かりません。素朴な世論が恐れているのは,無症状の感染者が街中に野放しになっていて感染が拡大することなので,感染者の特定を求めています。要するに,自分が感染しないか心配なのです。
 福山議員も同様のことを言っています。「無症状や軽症者が把握されずにいると感染拡大を防げないし、次なる対策も打てない」という主旨の発言を繰り返していました。この「対策」が何かは明確に述べていませんが,特定した感染者を隔離なり自宅待機させるようなことでしょう。素朴な世論もそうなれば安心します。

■ 全国民の感染の有無の把握は絵空事
 少し考えればわかりますが,全国民一人ひとりの感染の有無の把握など実現不可能な絵空事です。国民全員を検査しない限り分かりませんけど,現在の検査能力の10倍以上の1日10万人行っても1200日かかります。誰が感染しているか分からないから,三密回避や外出自粛が求められているわけです。感染者の特定が可能なら感染者を隔離すればよく,外出自粛など不要です。実は流行の初期のクラスター追跡はそれに近い対処法でした。大多数の人は感染していないという前提で,行動履歴などから感染の可能性の高そうなところから特定すれば良かったからです。しかし,感染経路が不明な感染者が増えたため,誰が感染してるかは確率的事象となってしまいました。その結果,緊急事態宣言がなされ,三密回避,外出自粛が要請されているわけです。
 人間は確率的思考が苦手ですので,素朴な世論は少し考えればわかることも考えません。世論とは直感的なものです。福山議員は,無症状感染者の特定が不可能なことは分かっているのかもしれません。それでも選挙で死活が決まる政治家は不可能だと分かっていても素朴な世論にアピールすることを優先しますからね。

■ 無症状者の隔離は例外的な人権侵害であり,また絵空事でもある
 感染者を特定して隔離できれば,非感染者にとっては大きな安心ですが隔離される側にとっては人権侵害です。隔離は感染症流行のような非常事態だけに許される例外的措置です。隔離されることは様々な不利益をこうむります。症状が出てそもそも活動が困難なら隔離入院で治療してもらう方が有難いかもしれませんが,無症状状態で隔離されるのは収入がなくなるなど不利益しかありません。無症状状態での治療は今のところないのですから,単に行動を制限されるだけです。当然,補償が必要です。感染者が数十人,数百人レベルなら可能かもしれませんが,既に確定しているだけでも1万人を超え,実際にはその数十倍かもしれない無症状感染者の隔離とその補償は非現実的な絵空事でしょう。中国のような国なら可能かもしれませんが。

■ 不確実性への対応
 感染者の特定が出来ない状況で,出来るだけ外出を避け接触を避けようというのは「不確実性」への対応です。「不確実性」への対応は危険をゼロにはできませんが,合理的に行えば少なくすることが出来ます。実はこういう対応は程度の違いはあるものの昔から普通に行っていました。風邪が流行ると,「繁華街のような人の多いところには行くな」と子供の頃によく言われました。誰が風邪に罹っているか分からないから,少しでも感染者に遭遇する可能性の低い行動をとれということで,現在の「三密回避」と考え方は同じです。
 そして,風邪のウイルスは完全に消えてはなくなりませんので,繁華街回避を解除する目安となる街のおおよその感染状況の把握が必要になります。風邪の場合は流行状況という大雑把な目安ですが,新型コロナウイルス感染症の場合は,もう少し精度よく,感染状況を定量的に把握しようということで,抗体検査による疫学調査を行うのでしょう。疫学調査とは,社会の全体的傾向を調べる統計的調査で,個人の治療のためのPCR検査とは目的が違います。従って検査結果は本人には伝えないことになっています。検査の精度などから個人の治療や行動の判断に使うのは弊害の方が大きいからだと思います。
 風邪やインフルエンザでは,国民全員を検査して感染者を特定することはありません。感染者が増えてくると学校の休校などの措置を行います。程度は大きく違いますが,新型コロナウイルス感染症への対応と考え方は同じ不確実性への対応で処理しています。風邪やインフルエンザも悪化すれば死に至る病で,毎年数千人の死者を出しています。それでも,感染者を特定しないと不安だという世論もありません。素朴な世論は直感的なもので首尾一貫性もありません。

■ 公共と私権
 門外漢の私には,専門的なことは分かりませんが,感染症の流行への対応は不確実性への対応だと思います。医療全体が不確実性の大きい分野ですが,感染症の流行は多数の人間に関わる公共的問題という点で特に不確実性が大きくなります。疫学とは統計的手法を用いた学問という意味です。感染症対策は個々の患者の治療の他に公共的視点で不確実性の大きい流行全体を制御しなければなりません。一方で,素朴な世論は,身近な自分の生活だけを気にします。社会全体の利益のため個々の権利や利益が制限されることが多々あります。公共の利益と私権の調整が必要ですが,野党はあまりそんなことは気にしないでいい立場なのだろうな,というのが最近思うところです。

禁書のパターナリズム

 香川県のゲーム規制条例がとうとう可決されました。子供をゲームの害から守ってあげようというパターナリズムです。ただし害があるかどうかは慈悲深い父親があると思えばあるという恐ろしい考え方です。

 子供に対する規制はパターナリズムであることはわかりやすいですが、大人も含めた禁書もパターナリズムだと私は思います。ケン・リュウの「訴訟師と猿の王」に、それがわかるくだりがあります。禁書を読んだという嫌疑を受けた田皓里(テイエン・ハオリ)と審問する易(イー)長官の次のやり取りです。

「このあつかましい愚か者め!今回はいつものごまかしが効くと思うな。きさまが謀反人の李小井(リ・シャオジン)に何か便宜を図り、禁じられた、反逆的な、けしからぬ文書を読んだという揺るがぬ証拠があるのだ」

「確かに最近本は読みましたが、その本には反逆的なことなど一つも書かれてはいませんでした」

「なんだと」

「あれは羊を集め、真珠を連ねることに関する本でした。それと何やら池を埋め、火を熾すことが書かれていたような」

机の後ろにいるもう1人の男が目を細くしたが、田(テイエン)は何も隠すことなどないかのように続けた。

「きわめて専門的で、退屈な本でした」

「嘘をつけ!」易(イー)長官の首筋の血管は破裂しそうだった。

「いと輝かしく明敏なる長官どの、どうしてわたしが嘘をついているとお分かりなのです?その禁制の書とやらの内容を教えていただければ、わたしにもそれを読んだかどうか確かめられるのですが」

「きさま……きさま……」長官は魚のように口をぱくぱくさせた。

 むろん易長官は本の内容を知らされていないだろう…禁書とはそういうものだ…が、田はまた、血滴子の男(皇帝のスパイ)も何も言えないはずだという予想に賭けていた。本の中身について嘘をついていると、田を告発すれば、告発者もその本を読んでいたと認めることになる。血滴子の成員は一人として、疑り深い満州族の皇帝に対しそのような罪を認めるはずがなかった。

  この後、田の抗弁は暗殺組織の血滴子には通じず、拷問の上、処刑されてしまいますが、それはともかく、この部分は禁書がパターナリズムによることをよく表しています。禁書はその内容を知ったものに害悪をもたらす故に、知ることを禁止されます。ところが、読まない限り害悪をもたらすかどうか知ることができません。唯一、家父長たる清の皇帝のみが知っており、読者は皇帝を信頼するしかありません。(もちろん「信頼」は上辺で実態は「強制」であることはいうまでもありません。)

 一方、麻薬などの禁止薬物は、実際に服用せずとも、科学的な検証によって有害性を推測できます。科学的な検証という言説を理解出来れば、自ら判断可能です。しかし禁書の場合は言説自体が害をもたらすと言っているので検証が出来ません。

 こどもの有害図書パターナリズムです。大人が判断して、子どもに読ませないようにしますが、子どもにはその理由がわかりません。大人のみが知っています。(もちろん、それも上辺で、実際には有害性は科学的に検証されておらず、経験的、あるいは推測で有害と言っているだけなのは、清の時代と大差ありません。例えば、暴力的ゲームと犯罪の関係については有るという調査もないという調査もさらには犯罪を減らすという調査もあるという状況です。)

 次に、大人も含めて有害だとされる発禁図書はどうでしょうか。清の時代ならぬ現代では出版は禁止されるだけですから、入手が困難になっても読むことは可能です。しかし有害性の証明が出来ないことは清の時代と変わりません。なぜなら読んだ人間は禁書の影響を受けまともな判断力を失ってしまうかもしれないからです。

 というのも上辺で、実際には禁書にそんな影響力があると本気で信じている人はいないでしょう。せいぜい、読めば不快になるかもしれないという程度です。例えば出版禁止されるものに「わいせつ図書」がありますが、これは一部の人にとって不快と言うだけです。刑法175条に出てくる「わいせつ」の意味は判例によって「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」こととなっています。つまり、正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反して不快と言うだけなのです。わいせつ文書を読んだ者が性犯罪を犯すとは流石にいえないと裁判官も分かっています。だから理由にもならない理由で禁止するしかないのです。

 小説や映画の悪役の行為も不快に感じる人もいますが、その結果犯罪を犯すわけでは有りません。納豆が嫌いという人も大勢いますが、食べたら食中毒を起こすわけでは有りません。ところが「わいせつ」だけはなぜか一部の人が不快というだけで出版禁止になります。性的なことだけ違法な理由は不明です。

 可能性としては、小説の影響を受け犯罪を犯したり、納豆アレルギーという特異体質の人もいるかもしれませんが、特異体質の人が避ければよく、販売禁止はお門違いです。酒乱で犯罪を犯しそうな人が禁酒すべきで、酒の販売を禁止されては善良な酒好きの迷惑です。

 世の中には騒音・振動、侮辱、名誉棄損など不快なことは無数にあるのですが、取り締まられるのは相手に否応なしに影響を及ぼす場合だけです。防音設備のあるカラオケボックスで大音量で歌っても騒音規制で取り締まられることはありません。納豆が嫌いな人に強制的に食わせるのは強要罪ですが、不快な食品である納豆を販売した科で罰せられることはありません。買って食べなければいいだけなので当然ですが、なぜか「わいせつ」だけは、強制的に見せたり読ませたりするわけでもないのに、罰せられます。この理由も不明です。

 未成年に対する有害図書は、根拠はないものの一応、好きで見た子供に悪影響があるという屁理屈がありますが、「わいせつ」にはそれすらありません。好きで見た人への悪影響もなく、嫌いで見ない人に見せるわけでもないのに、仮に見たら不快だろうというだけで違法になります。

 何故、発禁図書はこのような訳のわからないことになっているのでしょうか。私が思うに発禁図書とはパターナリズムであるという認識が薄いからではないかと思います。例えば、「親には従え」というような教えは、「封建的」と批判され廃れてしまいました。ところが、発禁図書には同じ思想があるにも関わらず、レッテル貼りがされにくいため、生き残ったのではないでしょうか。

「積極的勧奨」について厚労省に尋ねてみた

■ 厚労省への質問と回答

 厚労省の「子宮頸がん予防ワクチン接種の「積極的な接種勧奨の差し控え」についてのQ&A」によれば、「積極的勧奨」とは接種対象者への個別通知で、「勧奨」は不特定多数への広報です。ところが、予防接種法関連法令には「勧奨」という用語は出てきますが「積極的勧奨」はありません。このことは過去記事に書きました。

HPVワクチン接種の積極的勧奨

 現在、厚労省は法改正を行うことなく個別通知を差し控えていますので、広報だけで法定の「勧奨」を満足していると考えていることになります。「勧奨」には個別通知と広報があるものの、個別通知は行っても行わなくても良いという解釈です。

本当に、そのような解釈でよいのか、その根拠は何か、厚労省に問い合わせました。

 (質問内容)

HPVワクチン積極的勧奨についてお尋ねします。

1.「積極的勧奨」という用語は予防接種法関連の法令類には見当たりませんが、定義を記載した文書はあるのでしょうか。あれば文書名をお教えください。

 2.予防接種法第八条では、「第五条第一項の規定による予防接種(定期予防接種)であってA類疾病に係るものの予防接種の対象者に対し、予防接種を受けることを勧奨するものとする。」とあり、予防接種法施行令第5条で「予防接種の公告」を、第6条で「対象者等への周知」をしなければならないとあります。

 予防接種法施行令第6条の「周知」の具体的方法が「通知」(「積極的勧奨」)だとすれば、通知を差し控えるのは違法にならないのでしょうか。違法にならないのであればその根拠は何でしょうか。

3.全問において、「通知」が「周知」に含まれないのであれば、「周知」の具体的内容は何ですか。また、80%もあった接種率が個別通知を止めたため、ほぼ0%になっていますが、その内容に周知効果があるのでしょうか。

4.積極的勧奨差し控えの理由は、専門家の会議において、「定期接種を中止するほどリスクが高いとは評価されないものの、接種部位以外の体の広い範囲で持続する疼痛の副反応症例等について十分に情報提供できない状況にあることから、接種希望者の接種機会は確保しつつ、適切な情報提供ができるまでの間は、積極的な接種勧奨を一時的に差し控える」と説明されています。

 しかしながら、A類疾病は主に集団予防のため国が勧奨を行い本人(保護者)にも努力義務があるもので、一方、B類疾病は個人予防のため本人(保護者)が副反応等を考慮し自己判断で行うものと理解しております。このことから、積極的勧奨差し控えの理由では、B類疾病の定期接種とすべきと考えますが、A類のままとした根拠は何でしょうか。

  質問は昨年12月に行い、令和元年12月1日~令和元年12月31日受付分の主な回答も公表されましたが、私の質問への回答はまだありません。追って回答があるかもしれませんが、一旦ここで記事をまとめておきます。回答後に修正するかもしれません。

 「勧奨」や「周知」の具体的内容が法レベルには明文化されていないため、違法と断じることは難しそうです。しかし、よく見てみると、厚労省の解釈は、形式的にも法令と矛盾し、用語の意味からも混乱しており、内容的にも問題があるように思います。以下、その説明です。

 ■ 形式的な矛盾

 最初に、形式的な矛盾について述べます。予防接種の種類と都道府県知事や市町村長が行わなければならない行為を下表に示しています。


  法令上の行為は「勧奨」、「周知」、「公告」だけで、「積極的勧奨」なるものは存在しませんが、厚労省は「個別通知」という意味で使っているのは前述の通りです。

  「勧奨」と「周知」の関係について厚労省の考えは、平成25年6月14日付の厚生労働省健康局長から各都道府県知事あての「勧告」

に示されています。「勧奨」について述べた後の記2に、「ただし、その周知方法については、個別通知を求めるものではないこと。」とあり、「勧奨」の周知方法に個別通知があると厚労省は認識しています。Q&Aからすれば、他の周知方法は広報でしょう。つまり「勧奨」の具体的行為が「周知」でそれには個別通知と広報の二つあるという解釈です。

ところが、B類について、法では勧奨は行わないことになっていますが、令では周知を行うことになっています。「勧奨」の具体的行為が「周知」ならば、B類は周知せずかつ周知しなければならないという矛盾が生じます。(表の厚労省の解釈(1))

 この矛盾を解消するには「勧奨」と「周知」は別物とすべきで、それが正解だと思いますが、厚労省の解釈ではそれでも不都合が生じます。なぜなら厚労省は「勧奨」には「積極的勧奨(個別通知)」と「普通の勧奨(広報)」があると言っているのですから、「周知」にも「積極的周知」と「普通の周知」があることになります。そうすると、「勧奨」の個別通知と「周知」の個別通知の違いはなんでしょうか。「勧奨」の広報と「周知」の広報の違いは何でしょうか。私には全く思いつきません(表の厚労省の解釈(2))

■ 矛盾しない解釈

 「勧奨」の意味は奨めることです。一方「周知」はお知らせすることで、奨めたいことをお知らせする場合もあれば、禁止したいことをお知らせする場合もあります。さらに、やるやらないの判断は受け取る側に任せて情報だけお知らせする場合もあります。例えばA類はお勧めするとお知らせし、B類は情報だけお知らせするものです。

 常識的な解釈は、「勧奨」の具体的方法が個別通知で、「周知」の具体的方法が広報でしょう。この常識的な解釈では矛盾や不都合は生じません。(表の私の解釈)「勧奨」とは意図や判断を含んだものに対して「周知」や「公告」はその伝達手段のことで階層が違います。「勧奨」は法の規定であるのに対して「周知」と「公告」は令の規定なのはそのためだと思います。

 ■ 「勧奨」の目的と、A類だけ「勧奨」しB類は行わない理由

次に、そもそも法令の規定が何故あるのか、基本的なことを考えてみます。「勧奨」や「周知」はどのような目的のため、どのような効果を期待しているのか、なぜ定期接種のA類や臨時接種は「勧奨」が必要なのに、B類は不要なのか。「周知」は定期接種(A類とB類)で行い、臨時接種では不要なのはなぜか、というようなことです。また「勧奨」や「周知」によってどのような効果があれば適正に行ったことになるのでしょうか、厚労省が「積極的勧奨」と呼ぶ「個別通知」を行わなくとも、「勧奨」の目的を達する効果が得られるのか。これらについて考えてみます。

先ほどの表に定期接種のA類とB類の違いを示しています。A類の集団予防とは社会防衛とも言います。例えば極めて頑健な体質でウイルスに感染しても発病の可能性が少ない人は、個人的には予防接種する必要はありません。しかし流行性の感染症の場合、他者に感染を広げないために予防接種をするのが望ましいです。だから行政は「勧奨」するわけです。それに対してB類の個人予防はあくまで個人の感染や発病を防ぐためでその個人の判断で決定すればよく、行政はそのための情報提供だけします。接種時期と場所、費用、効果、注意事項などです。これらの情報は「勧奨」するA類でも当然必要ですので、定期接種では「周知」を行うことになっているのだと思います。

また、B類では「勧奨」を行わないのは、してもしなくても良い(任意)ということではなく、するべきではないという意味合いもあります。接種の利益と害は個人によって害が大きい場合もあるので、集団防衛の必要がないのであれば、一律に「勧奨」すべきではないからです。つまり、「周知」には「勧奨」だけでなく「注意」や場合によっては「抑制」もあり得ます。

緊急を要する臨時接種では即、個別通知を行う必要があり、悠長に広報による周知をしている余裕がないことが多いと思います。それに対して、時期の決まっている定期接種では日頃から広報によってA類とB類の対象者に周知出来ます。時期がくれば個別通知でA類対象者だけに「勧奨」するのでしょう。

■ 厚労省見解の難点

 厚労省解釈には形式的矛盾があるだけでなく、内容的にも妥当ではありません。先ほどの表を再び見ると、厚労省の見解では「積極的勧奨(個別通知)」をするのか、(広報)だけなのかは法定外の行政判断であり、重要度が下がります。しかし、A類感染症は、集団予防の観点から、ぜひとも対象者に接種して欲しいので、広報で「周知」するだけではなく、個別に通知するよう法8条に「勧奨」を定めているのではないでしょうか。臨時接種も感染の蔓延の可能性が大きかったり、すでに蔓延し始めているため、時間のかかる広報ではなく、個別緊急に接種を呼び掛ける必要があるはずです。このように重要で、行うべき対象と行うべきでない対象があるにもかかわらず、厚労省の見解では法定事項ではなく、実施の有無が行政判断で行われます。

 とはいえ、厚労省の事情も分からないでは有りません。感染症予防対策、副反応対策は迅速に行わなければなりませんが、法改正には時間を要するからです。それを考えると、法に疾病名まで規定されているのが機動的対応を困難にしているのかもしれません。具体的疾病名は令以下のレベルで定め、法にはA類B類がどのようなもので、それらの予防接種に当たって行うべきこと行うべきでないことなどの頻繁に改正の必要がない基本的事項だけ定めるのが良いかもしれません。

 その場合でも、A類疾病の予防接種の「勧奨」すなわち個別通知の有無は基本的事項であり、A類でも個別通知を行わないとするのはA類の意味の変更になるので法改正が必要だと思います。

 ■ 差し控える理由と再開する理由があいまい

厚労省HPに記載してある個別通知を行わない理由の「適切な情報提供ができない」とはあいまいでよく意味が分かりません。仮に安全だという情報が提供出来ないなら「勧奨」どころか接種を中止すべきです。接種したほうが良い人としない方が良い人がいて、接種者の判断で行うべきならB類にして、その旨を「周知(広報)」すべきです。

実は、日本脳炎ワクチンの「積極的勧奨」差し控えは、日本脳炎ワクチン接種と健康被害との因果関係を事実上認めたため行われました。

日本脳炎ワクチン接種の積極的勧奨の差し控えについて

従って、副作用の恐れの少ないワクチンが供給できた時点で再開されています。実質的に「勧奨」を差し控えているのでB類扱いなのに、法改正を行わずA類のままという手続き的な不備はあるものの、差し控えた理由と再開する条件は明確でした。

ところが、HPVワクチンの場合は、「勧奨」はするけど、「積極的勧奨」はしないという勧めているのかいないのか分からないどっちつかずです。厚労省の見解では「積極的でない勧奨」とは広報ですが、後述するように実際の「広報」では「勧奨」ではなく自己責任で接種せよと「注意」しています。

また、「勧奨」と「積極的勧奨」を分ける「適切な情報」とは皆目わかりません。現状でも積極的でない勧奨はできるほどリスクは小さいわけです。では積極的に勧奨できるほどのリスクとは、現状のリスクの1/2でしょうか、1/10でしょうか。日本脳炎ワクチンの時のように「積極的勧奨」を再開する条件が全く示されていません。H25年の「勧告」では「速やかに専門家による評価を行い、積極的な勧奨の再開の是非を改めて判断する予定であること。」とあるのですが、既に6年を過ぎましたが再開できていません。再開できる「適切な情報」が医学的情報だとすると一体どういうものなのかわからないのですから、再開できないのも当然です。

 ■ 実際の理由は接種者の健康被害リスクではなく、風評による厚労省の訴訟リスク

厚労省が個別通知を差し控えている理由は、接種者の健康被害リスクではなく自らの訴訟のリスクであろうことは、容易に推測できます。ワクチンに限らず医療は、害より利益が大きいから行うのであって、副反応や副作用はある程度あり、過失がなければその責任を問われることはないはずです。ところが、副反応が起きるとメディアがこぞって叩き,現実に訴訟で国が負けるという事態が繰り返されてきました。HPVワクチンも裁判になっています。この事情は、厚労省の元課長がインタビューでぼやいています。

HPVワクチン 厚労省はいつ積極的勧奨を再開するのですか?

この記事では,岩永氏のHPVワクチンはどうやったら積極的勧奨を再開できるかという問いに対して正林氏は国民の理解が必要でそのためには教育とマスコミの報道姿勢が改善すれば変わると言っています。これは,積極的勧奨を差し控えたのはHPVワクチンの安全性という医学的理由ではなく風評のためだと言っているわけです。また日本のワクチン行政は副反応との兼ね合いで動いてきて,副反応が起きるとマスコミが書きたて,裁判で国が負け,健康局長が謝罪するという歴史があると述べています。

さらに、「積極的勧奨」が差し控えられた2013年の次の記事にはもっと身も蓋も無く「健康被害が起こっても国家賠償法第1条に規定する違法性を問われることがなくなりました。」と書かれています。さらに、「接種率の低下さえ起きなければ、結果的には、予防接種を受ける側にとっても、接種する側にとっても、望ましい決定であったのではないでしょうか。」と述べています。その時点の楽観的見通しは残念ながら外れ、接種率は低下してしまい、接種を受ける側にとっては望ましいといえる状況ではなくなってしまいました。

子宮頸がん予防ワクチン接種の「積極的な接種勧奨の差し控え」厚生労働省の通知について

 実質的に、厚労省は「積極的勧奨」ではなく「勧奨」を差し控えています。そうしないと現在の風潮では訴訟を防止できません。ワクチンとの因果関係がなくてもたまたま接種後に具合が悪くなれば訴えられます。厚労省としてはほぼ接種がゼロになるか、あるいは厚労省の「勧奨」によってではなく自己判断で接種する人だけにならない限り安心できないでしょう。そして、厚労省にとっては「幸い」にも、70%を超えていた接種が1%未満になりました。この状態を「勧奨」していると言ってよいでしょうか。

実際に厚労省が言うところの「勧奨」である広報を見ても、「勧奨する」とは書いてありません。ワクチンの利益と害の情報を提供し「受けるかどうかは、接種することで得られるメリットとリスクを理解した上で、御判断ください」と書いてあります。これは、B類の広報であり、日本語の常識的な意味でこれは勧奨とは言いません。

 ■ 「積極的勧奨」という言葉は恣意的に用いられる

前述したように、日本脳炎ワクチンの時の「積極的勧奨差し控え」の理由はHPVワクチンの場合と違います。繰り返しになりますが、日本脳炎ワクチン接種の場合の理由は日本脳炎ワクチン接種と健康被害との因果関係を事実上認めたからで、接種勧奨の再開は副作用の恐れの少ないワクチンが供給できた時でした。これは医学的根拠に基づいた判断ですが、HPVワクチンの場合は、ワクチン接種と健康被害の因果関係もなく、医学的理由というよりも、厚労省の訴訟リスクだとしたら、再開の見込みは全くありません。正林氏がいうとおり国民に理解されるまで再開されません。時と共に風評のほとぼりが冷めるのを待つしかありません。厚労省は国民に理解を求める気はなく、マスコミがやってくれと言っているんですから。

なお、日本脳炎ワクチンの場合もA類からB類への法改正は行われておらず、通知で済まされていて、これも問題です。通知では感染の恐れが大きい者の場合はワクチン接種しても差し支えないと書き添えられています。これは、感染の恐れが大きくない者には勧奨しないということで、B類の個人予防の観点そのものです。ワクチン接種と健康被害との因果関係が認められたため、行政としては一律の「勧奨」は差し控え、利益と害を個人ごとに判断することになったのですからB類にするべきでした。

さらに、日本脳炎ワクチンの場合は「積極的勧奨」という言葉は使っていますが、通知の内容から判断すると「勧奨」の単なる強調のように読めます。例えば「積極的勧奨の再開」ではなくて「勧奨再開」と表記していますし、HPVワクチンの場合のように「個別通知」と「広報」の使い分けもしていません。おそらく、厚労省の意識も「勧奨」を差し控えたのだと思います。

これがHPVワクチンになると、「積極的勧奨」は,個別通知という意味に変わり、実質的に「勧奨」を差し控えながら、「勧奨」は行っているという建前に変化しています。

 ■ 何が問題か

 日本脳炎ワクチンの時には「積極的勧奨」は「勧奨」と多分同じ意味で使われていましたが、HPVワクチンの時には個別通知という意味に変わりました。恣意的に意味を変えることができる用語の使用によって、法第8条の「勧奨」を実質的に止めながらも違法ではない体になっています。

 司法からも責任を問われるという過去の歴史を思えば,厚労省に同情しないでもありません。しかし,過去のワクチン被害とHPVワクチンの事情は必ずしも同じではなく,羹に懲りて膾を吹いているんじゃないでしょうか。WHOを始めとして多くの専門家が予防できたはずの子宮頸がんの発生を危惧しているというのにです。

 こうなってしまったのはメディアの責任が極めて大きいですが、最終的に厚労省はメディアに屈服したということでしょう。BuzzFeedのインタビューで正林氏は、厚労省が国民の理解を得ることは出来ないとあきらめてしまい、「あんたがやってくれ」とボールをメディアに投げてしまいました。

 しかし、仮にメディアがやるとしたら、行政を悪玉にするやり方になるんじゃないでしょうか。今までのメディアの論調はきれいさっぱり忘れてしまい、厚労省の不作為の罪を批判して「積極的勧奨」を再開せよと。実際にそれに近いことをしたのが、BuzzFeedの岩永氏の記事(岩永氏自身の主張は一貫していますが、他のメディアの批判まではしていない)ですが、厚労省としても気分が良くないだろうことは、正林氏の反応からも伺えます。

 厚労省の批判ばかり書いていますが、一番の問題はメディアだと思っています。そのメディアに任せるなんて短気を起こさずに厚労省には頑張って欲しいのですよ。

「負の性欲」論とは「負の「水伝」」

 世情に疎いもので「負の性欲」って、キモい男に性欲を感じることかと思っていました。本当は、キモい男を排除することでした。批判はいろいろ目にしていましたが、最近、やっと発祥のブログを読んで知りました。その感想文です。 senyousociety.blog79.fc2.com

 一読して、これは、「負の「水伝」」だなと思いました。道徳の根拠に科学を持ち出した「水伝」と同じことをやらかしています。男が女なら誰でもいい傾向があるのに対して、女が男を慎重に選ぶ傾向を、性淘汰で説明する説は特に目新しくもない説で、ちゃんと検証されているかどうか知りませんが、それなりに説得力があると私は思います。

 しかし、科学は現象を説明するだけで、その現象が良いとか悪いとかの価値観とは無縁です。一方道徳の類は価値観そのものなので、「水伝」はまともな科学者から批判されています。そういえば、ずいぶん以前に石田純一が遺伝子を持ち出して浮気を正当化しようとしたことがありましたね。遺伝子とか進化論は珍妙な主張の正当化によく利用されます。「量子論」や「免疫」なども人気です。

 石田純一は、浮気も本能だからと正当化しようとしましたが、「負の性欲」は逆で、本能の性欲だから下劣だと主張しているようです。だから「負の「水伝」」です。禁欲主義者は、本能の性欲も汚らわしいと考えるようなのでそれに近い感覚なのかもしれません。この嫌悪感は次のような記述に現れています。

 僕は、この女の「負の性欲」の存在に気付いてからというもの、女が男にキモいという表情を見せたときその顔が性欲に歪んだ女性器に見えるようになってしまった。 

 蛇足ですが性的な意味があるからと言って、性的快感があるとは限りませんね。私は、糞便には生理的嫌悪感を覚えますが、スカトロジストではないので性的快感は覚えません。あえて言えば「他人の不幸は蜜の味」に近いような気がします。これも競争相手を排除する本能かもしれませんが、性的快感じゃなくて嬉しいだけです。

 この点について、批判者に対する反論的な12月7日の追記でリョーマ氏は「3. 女が「キモい」と男を遠ざけるのは性欲の発散(自慰行為)」とは言っていないと書いています。しかし、私も批判者と同じように読み取りました。前で引用した「女が男にキモいという表情を見せたときその顔が性欲に歪んだ女性器に見える」や「キモい男をしばいてンギモヂイイイしているのは、女向けのポルノとでも言うべきものなんだ。」ってS女王様の表現そのものなんだから。

映像表現の自由 小宮 友根氏の論説について

gendai.ismedia.jp

  リンクは、赤十字献血ポスター「炎上」に関する考察の一つです。その批判を書き出したら、結構長文になったので、結論を先に書きます。この考察は、現実とフィクションを混同していると思います。しかも、意識的にやっている疑惑があります。その結果、外形的な「表現技術」を問題視しています。例えば「恥じらいや戸惑いの表情もNG」と結構凄いことを言い放っています。以下、詳細に見ていきます。

 

 ■表象は「誰かが作る」もの 

 この最初のパートで、小宮 友根氏は次のように述べています。

ポイントは、表象は必ず「誰かが作る」ものだという当たり前のことです。この当たり前のことを踏まえると、「表象/現実」という区別を離れて、表象を作るという現実の行為について考えることができます。女性表象は――なにしろ女性の表象として作られるのですか――多かれ少なかれ「女性とはこういうものである」という、私たちの社会にある考え(女性観)をもとに作られるものです。

(中略)

つまり、家事育児を女性ばかりがしているような表象を作ることは、「ケア役割の担い手」という女性観を前提におこなわれる、数ある現実の行為のうちのひとつなのです。

  ここでは、小宮 友根氏は、「表象」という表現行為と、「表象」に表現されている行為を実際に行うことの違いを自覚していて「表象/現実」と区別をしています。子供でも分かるようなことですからね。ところがその直後に、表現行為も「現実の行為のひとつ」と言い、同じものであるとミスリーディングし始めます。

この言い回しは、「サルは動物であり、人間も動物である。従ってサルと人間は同じである」論法並みの粗雑な詭弁です。この詭弁を用いて、この後に続く部分で「サルは畑を荒らすので駆逐すべきだ。サルと人間は同じ動物なので人間も駆逐すべきだ」に近いことを言い始めます。

 

■「累積的な抑圧経験」

 このパートは不明確でぼけた記述で、何を言いたいのかよくわかりません。そこをあえて解釈すると、繰り返し差別されれば深く傷つく、という当たり前のことに「累積的な抑圧経験」と命名しただけです。現実に差別して傷つけるのは悪いに決まっていますが、そこから何の説明もなく、「表象の「悪さ」」と、NGな表現に飛躍します。

 出っ歯、短足、眼鏡のステレオタイプの日本人のイラストは不快ですし、自尊心を傷つけられます。しかし、それを禁止することには疑問があります。映像表現の裏の意図などと言うものは推測でしかないからです。悪意の感じられる表現、当てこすり表現、嫌みな表現というのは礼儀に反しますが、禁止できるような性質のものではありません。ヘイトスピーチなどを規制するため人種差別撤廃基本法案が提出されていますが、恣意的な運用の恐れがあるため成立していません。言葉によるヘイトスピーチはまだしも意図が読み取れますが、映像表現から意図を読み取るのは鑑賞の範囲にとどめておくべきです。

 案の定、小宮 友根氏は、この後で恣意的な意図の読み取りをします。

 

■「エロい」ことが問題なのではない

 このパートと次のパートで「すり替え」が行わていると私は思います。先ず、「エロい」ことが問題ではない、と当然のことを述べています。「エロい」とは性的なことで、これを否定するわけにはいきませんからね。そこで、フェミニスト哲学者という人の言説を引用して問題となる7つの要素を述べています。人間を道具として扱う「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」の七つです。

 繰り返しになりますが、現実に人間を道具として扱うのは許されませんが、表現としては十分ありえます。例えば「異常性欲」を扱った文学は、異常性欲がない人も興奮しながら読んだ経験はあるでしょう。なぜ興奮するんでしょうか興味深いですが、テーマから外れるのでこれまでにしまう。もちろん、これらはゾーニングなどの配慮は必要でしょう。

 

■性的客体化の表現技法

 いよいよ、このパートからが本題です。「異常性欲」を扱ったイラストを献血ポスターに使用するのは流石に広い賛同は得られません。しかし、巨乳のイラストには何の問題もないと思いますが、問題があるという牽強付会の理由付けがここから始まります。

 まず、「女性のみを性的客体として意味づけるような描写がそこにあれば、その表象は差別的だと感じられるかもしれません。」と相当乱暴なことを言っちゃってます。主に男性が見ることを意図した場合、女性のみを性的客体として表現するのは当然ですね。男性も性的客体として並置したら一部の男性を除き、男性はゲンナリします。

 この「客体」とは、道具的、非自律的なものという意味のようですが、男は(多分女も)エロ映像のようなまさに道具であり、非自律的なものに性欲を感じてしまう単純で馬鹿な生き物です。だからと言って生身の女性(あるいは男性)を道具的、非自律的と思っているわけじゃありませんからね。 

 この後、列挙する5つの表現技法を使えば、現実の女性にも「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」なる性質があると差別的思想に染まっているというこじつけが列挙されます。

(1) 性的部位への焦点化

 性的部位(胸や尻など)を強調し、そこに目が行くように女性を表象する手法は、性的な客体(道具的・非自律的etc.)としての女性という考えが前提にあるそうです。私は胸の大きな女性がいると思わず胸に目が行き嬉しくなりますが、その女性を道具だとも、非自律的だとも思いませんよ。

(2) 理由のない露出

  この表現手法については、「女性は性的な客体(道具的・非自律的etc.)」として扱う7要素のどれに当たるかの説明もありません。理由のない露出は性的な鑑賞のために女性を使っているから悪いそうです。もちろんイラストを見るのは性的な鑑賞のためですが、現実の女性を道具と思わないのは(1)と同じです。ゾーニング規制を除き、性的な理由で露出してはいけないという法律も倫理もありません。宗教にはあるかもしれません。

(3) 性的なメタファー

 だんだんと妄想めいてきます。直接的性的表現だけでなく、連想させるものはダメだそうです。ピアノの足が猥褻だと靴下をはかせた(これは事実ではないらしいですが)ヴィクトリア朝に逆行しています。恣意的な解釈がエスカレートする危険な兆候です。

(4) 意図しない/望まない性的接近のエロティック化

  意図しない性的接近を女性がそれほど嫌がっていないような表現もダメだそうです。騒ぎになった献血ポスターにはそんな要素はありませんでしたが、確かに、世の中には結構存在します。それは男性のご都合主義的な妄想を描いていますが、それだけです。現実と妄想を混同するほうが危険ですよ。

(5) 利用可能性/受動性の表現

 これに至っては、批判するのも馬鹿らしいです。「寝そべっている女性を上から眺めている」「女性が片手または両手を上げて性的な部位を無防備にしているポーズ」「恥じらいや戸惑いの表情」もダメだそうです。困りましたね。女性は能動的に男を誘惑することもできませんよ。お嬢様はそんなはしたないことしないのかもしれませんが。

 誘ってもいないのに誘われたと勘違いするのは男が馬鹿だからです。そんな馬鹿男は気にせずに女性は自由にセクシーに振舞いましょう。その方が痴漢にも狙われにくいですし。

 

■性的な女性表象の累積的抑圧

 このパートでは、表象(表現)ではない、現実の行為について述べています。現実の性差別が駄目なのは言うまでもありません。現実の行為とフィクションの混同を実地で示しているパートです。

 

■表象の読解の必要性

 このパートでも珍妙なことを宣っていますね。

まず当然のこととして、身体の露出や裸体、性行為や性暴力を描くことそれ自体は、そこに性的客体化が表現されているかどうかとは別のことです。性的客体化の技法抜きにそれらを描くこともでき、そのときはフェミニズムの観点からはそれらは差別的ではないということになるでしょう。

  わかりにくい文章ですが、性的な表象自体が女性を道具的、非自律的etc.として扱っているとは限らないという意味でしょう。ここはまともです。だから、表象の読解が必要なのでしょう。これも結構です。で、その読解の判断基準が次です

 さらに、問題は表象作成者の差別的意図にあるわけでもありません。ほとんどの場合作成者は女性を差別しようという意図などは持っていないでしょう。しかし「お約束」として安易にパターン化された技法を使えば、それは一定の仕方で女性を意味づけることになり、それゆえその是非が問われるものとなります。

  ぶったまげたました。恐ろしい発言ですね。性差別的意図がなくても、前述の5つの表現技法を使えば是非を問われるんですよ。「相手がセクハラと感じればセクハラだ」というセクハラの定義がありますが、これはそれ以上です。相手が差別だと感じなくても、自分にその意図がなくても、5つの表現技法を使えば性差別になるんですよ。その表現技法は古今東西の文学、演劇、美術で無数に使われています。これらを一掃しようという文化大革命構想じゃないでしょうか。

 

■「法規制より論争を」

 このパートでなぜかトーンダウンします。さすがに表現技法で断罪するのはやり過ぎと考え直したのでしょうか。法規制ではなく論争をと安心させてくれました。でもここだけ「法規制より論争を」とかっこ書きになっているのは何故なんでしょうか。気になりますね。ここでは、公的空間でのゾーニングなどあまり異論のない普通のことを述べていますがかっこ書きが大逆転を暗示しているようで不安ですね。

 

■私たちは議論の出発点に立った

 大逆転はありませんでしたが、結びのパートで、結局なにを言っているのかわからなくなります。途中では「表現技法で性差別とみなす」とかなり過激なことを主張するも、それは無茶と考え直したのか「論争を」とトーンダウンし、議論の出発点に立ったと言われても、どういう観点で論争を始めてよいか分かりません。5つの技法以外に法規制が望ましい表現技法を探そうというのでしょうか。それとも単に、「私はこんな表現技法は好きじゃない」と雑談でもすればよいのでしょうか。この論説は、小宮 友根氏が好まない表現技法を列挙しただけという気がしないでもありません。なにしろ何故NGなのか説明がありません。

 そこで、私の提案ですが、性差別を扱う前に、映像表現の自由とは何かを論争するのはどうでしょうか。例えば似顔絵のデフォルメはどこまで許されるかとかどうでしょう。個人的には、どのような表現も原則は自由だと思っています。実害が無視できなくなれば例外的にゾーニングなどの制限をすればいいのです。このように考えた方がアプリオリに悪い表現があると鵜呑みにするより、悪い理由を考えることになるんじゃないでしょうか。

厚労省のHPVワクチン対応とトロッコ問題

 次のリンクは、7月ごろのHPVワクチン接種についての、岩永直子さんと元厚生労働省健康課長の正林督章さんの対談です。

 HPVワクチン 厚労省はいつ積極的勧奨を再開するのですか?

 あらためて読んでみて、正林督章さんの見解は「トロッコ問題」に悩んでいるようだなと思いました。でもよく考えたら違いますね。違うけれど、共通するところもあります。

 トロッコ問題

 「HPVワクチンを接種すれば、多くの将来の子宮頸がん患者を救うことができるが、少数の副反応被害をもたらす。被害の大きさからすれば、接種すべきだが、副反応は人為的接種による被害だ。一方、子宮頸がんは自然のものだ。多くを救うためとは言え人為的に犠牲者を出してよいのだろうか。」

 というような気分だったのかもしれません。ただし、「トロッコ問題」は純粋に倫理的な問題で、法的な責任は問われないという前提があります。判断するものの内面の道義の問題です。これに対して、正林督章さんは、積極的勧奨を止めたのは、マスコミが接種は危険であるような報道をしたからだとボヤキを言っています。つまり、法的責任を心配しているわけです。マスコミが作った世論の責任まで行政にあるのかと疑問を呈しているのは正にそういうことでしょう。副反応を起こしていいのかと道義的に悩んでいるのではなく、副反応被害が起こった時に世論が行政の責任を問うことを恐れているわけです。そして、そういう世論を作ったのはマスコミじゃないかと愚痴をいっているように思います。マスコミに愚痴を言いたくなる気持ちはわかりますが、道義的な悩みではありません。

  ここから本題ですが、 私も「トロッコ問題」を初めて知った時は悩ましい問題だと思いました。しかし、最近は大した問題ではなく、人道的行為に思えるのは感覚の問題に過ぎないと考えるようになってきました。もっとも、尿瓶でビールを飲みたくないように、人間にとって感覚の問題を無視できないのは確かです。5人がトロッコに轢き殺されるのを傍観しているのは気持ちよいものではありませんが、自ら手を下して一人を轢き殺すよりは抵抗が少ないのは私も同じです。

  トロッコ問題は極端ですが、人のための行為は同時に人に危害を与える部分が多少なりともあるのが普通です。人を切り刻むのは非人道的行為ですが、病を治す手術なら、医師は悩みません。でも、一般の人は緊急時で手が足りないから手術を手伝ってくれと医師から頼まれても、抵抗があると思います。この場合は人道的というより生理的嫌悪感と失敗の恐怖ですが、実は人道的嫌悪感というのは生理的嫌悪感の洗練されたものという気がしないでもありません。

 100%良い行為や100%悪い行為はそれほどありません。多くの問題は、誰かを助ければ、誰かが被害をうけます。従って、総合的に判断しなければなりませんが、えてして悪い部分というものは人間の感情や生理的嫌悪感に強く訴えます。非人道的で道義的に問題があるように感じ、その結果、不作為の傍観者になって大きな被害をもたらす、ということが最近の社会問題の多くに共通しているように見えます。

 ミスタースポックは、人間味に乏しいですが、いい仕事をしていました。